備中の名門三村氏の滅亡と備中兵乱の経緯などに思いをめぐらしました。
備中兵乱と三村氏の滅亡(つづき)
常山城の戦い
兒島常山城は、標高307m、児島富士と言われる美しい山容を誇る常山の頂上一帯に曲輪を連ねた堅城で、三千人でも篭ることが出来そうな威容を誇っていましたが、この時の兵力はわずかに二百数十に過ぎなかったといいます。
この悲劇の城には、女軍を率いて戦ったという鶴姫の伝説が残っていて、備中兵乱の最終章を飾っています。そのあらましについて、拙稿の 常山城に行きました にも書いていますが、ここでは吉備群書集成から兒島常山軍記の一部を抜粋して紹介します。
是より高徳をほろぼすべしと、成羽にて諸陣軍勢を催し、同六月四日常山へむかはるゝ。
大将三村孫兵衛尉親成、二千餘騎にて彦崎に陣を取り、嫡子孫太郎親宣は宇野津・迫川に陣を取り、一千三百餘騎にて向はるゝ。小早川伊豆守光重は山村に陣を取り、一千餘騎を二手にわけ、備前は豊岡まで責寄ける。浦野兵部尉宗勝は、二千餘騎にて、用吉より宇藤木に旗をあげ、双方相図の時を合せ、同六日辰の刻大手の木戸よりみだれ入り、二の丸に責寄、鬨をどつとぞあげにける。
城中にときを合せざるは、いか様小船にのりて島渡りなどせば、責口の油断と成べしとて、麓の茂曽路に火をかけ、逆茂木をかなぐり捨て、をめきさけんで責入ける。
高徳 立出、多年それがし藝州に對し欝憤有る故、元親謀叛の張本はそれがしなり。然所に元親無下に生害に及び、我いきて何の面目かあらん。一日も早く死地におもむくべしとこそはおもへ。いで/\最期のはたらき見せんとて、鎧なげかけ腹帯〆、きやうもんしのきをたゝみ鉢巻し鐵炮追取て廣ゑんにをどり出、二ツ玉にてすき間もなく放ちかくる。
嫡子源五郎高秀は平生強弓を好み、銀のつゝ打たる弓を射る。是も又鐵炮を放ち、舎弟小七郎高重は三人張に十三漣三つ伏取て引〆、差詰引詰さんざんに射る。三人の飛道具にて討たるゝ者數をしらず。
明れば七日のあかつき、城内酒宴の聲きこゆ。多くは女の聲にて、たがひにわかれをしとぞおもはれける。
同辰の刻敵陣にむかひ、一類生害の由告げければ、人々我先にと出合ければ、高徳の叔母五十七歳なる、先づ一番に自害をせんとて、我世にとゞまりてかゝる浮目をみる事も、生々世々の業因淺からず。高徳藝州に遺恨を含み入道せられし事をだにも、世にもものうくおもひしに、腹きるを見るならば、目くれ心もくらむべし。しばしも跡にのこらんより、先達て自害を遂べきと、ゑんばしらに刀のつかをまき付、其儘行當り貫きける。高徳走りより五逆の罪おそろしく候得どもとて、御首を打落す。
嫡子生年十五歳、父上の御介錯仕度候得ども、少年ゆゑ跡にのこらば、御心がゝりにおぼし召たまふべし。逆さまにては候得ども、御先へはら仕るといひければ、高徳きこし召、扇子を開きあふぎ立、我が子ながらも神妙なりとて、顔つくづく打ながめ、さかりもまたぬ花紅葉、今朝の嵐にちりはつる。哀れはかなき世のならひと、しばし袖をぞひたさるゝ。
高秀も共になみだにむせびしが、三途の先がけ仕ると、おしはだぬぎ腹十文字にかききれば、高徳立つより首打落し、二男八歳になりけるを取て引よせ二刀さし通し押伏たり。
高徳の妹に十六歳になり玉ふ姫君、これは藝州鼻高山の大将は高徳の弟なれば、此君一人是へ立のきたまへと申されければ、思ひ寄らざる事なりとて、老母の貫きたまふ刀にて、乳のあたりをつきつらぬき、おなじ枕にふしたまふ。
高徳の妻女三十三歳になり玉ふは、男に越えたる武勇なり。われ武士の妻となり、最期にかたき一騎もうたずして、やみやみと自害せん事口惜き次第なり。既に三好が従弟叛逆の一類たる身、女たりとも一軍せで叶ふまじきと、鎧取て着、上帯しめ、三尺七寸の太刀を帯し、たけとひとしき黒髪を打乱し、三枚甲の緒をむすび、くれなゐの薄衣上は打かけ、すそ引あげ腰にてむすび、白柄の長刀小脇にかいこみ、廣ゑんにをどり出玉ふ。
自は邪正同一如とくわんねんし、此戦場を西方の浄土として、修羅のくるしみも極楽のいとなみとおもへば、なにかくるしかるべきと、そで振切て出行きたまへば、とても散るべき花ならば、おなじ嵐にさそはれて、死出三途のさきがけせんと、髪とき乱しはちまきし、爰やかしこにたて置し長柄の長刀引提さげて、三十四人の女房、我先にとかけ出づれば、累年厚恩の家僕共是を見て、八十三人死を一統に極め、我おとらじとかけ出る。
敵此有様を見て、城内に妻子を先立出るとて、差控へ居たる所に、小早川の先陣浦野兵部宗勝、七百餘騎の眞中へかけ入る、大将宗勝下知して曰、城内女人にさまをかへ、寄手をあざむくと覺たり。是處女の如くし、脱免の功を作す計略と、孫子の秘する所、あなどつて不覺を取るな兵共と、陣を堅めて控へしかば、あへて破るゝ事もなし。されども屈究の勇士死を一統に輕んじ、一面に突立れば、寄手は足を乱し、討るゝ者數十人、疵を蒙る者數をしらず。
此勢に來じて高徳の妻女、腰なる銀のさいはいとり出し、眞先にすゝんで、かけ破れやもの者共と、大勢にかけ合ひ、いきをもつかずたゝかひける。
さすがの宗勝武勇をたしなめば、女に向ふ者もなく、城中の兵共、おもてもふらずたゝかへども、多勢に無勢叶はゞこそ、のこりすくなにうたれける。妻女も今は是迄と、大将兵部が馬のまへにかけむかひ、宗勝は西國にかくれなき勇士とかや。我女なれども一勝負仕らん。そこ引玉ふな浦野殿と、長刀水車の如くふり廻し、只一文字にかゝり玉ふ。
宗勝引しさり、いや/\御身つよきにせよ、女性なれば相手にはなりがたし。高徳と勝負を決せんといふ内にも、横合より雑兵四五騎かゝりけるを、長刀追取のべ七八騎なぎふせ、薄手負ひながら、そこのき玉へ人々と、腰なる刀ぬき出し、是は我家重代の國平が打たる名作なり。當家より父家親に参らせし秘蔵、他に異なりしが、重代のよしききたまひ、返し置れし太刀なれば、父上に添ひ奉ると思ひ身を離さず持きたりしが、死後には宗勝に参らする。後世弔ひてたまはれといひすてゝ、城内にかけ入りし有様、只刀八毘沙門の喜見城を守護したまふとき、吉女天女諸共に、修羅を責討ついきほひも、かくやとばかり思はれて、見る人舌をまきにける。
かくて西にむかひ手を合せ、我西方十萬億土のみだを頼むに非ず、己心の彌陀、唯心の淨土、今爰に現ぜり。佛も如露亦如電ととき玉ふ。誠に夢の世に、あはれ身の面影つゆに宿かる稲妻の、はや立かへる本有の城、南無阿彌陀佛と念佛し、太刀をくはへ、うつ伏になりたまふ。ためしすくなき女性なり。
高徳も西にむかひ、南無西方彌陀如来、今日娑婆の苦をのがれ、本國に立かへり、一族の者共と、おなじ蓮にむかへたまへと十念して、腹十文字にかきゝれば、舎弟 小七郎介錯し、其身も自害し高徳の死骸によりかゝり、おなじまくらにふしたまふ。見る人なみだをもよふしける、頓て數多の首共、備後の國鞆津へこそはおくりける。
・・・<後略>・・・
付記
元親の失敗と備中兵乱
※元親は、毛利氏に叛くという一族や家臣・傘下の豪族たちの運命を軽視した決定をしてしまいました。 それが家臣や傘下の小豪族たちの思いからかけ離れたものだったことは、その後の備中諸城で毛利氏に走る者が続出したことでも容易に想像できます。
彼らは、勝てる見込みのない毛利氏に敵対するなどもとより思ってもいなかったでしょうし、毛利氏との戦は自らの生き残りのために何としてでも避けたいところだったでしょう。
ともかく、備中兵乱によって戦国大名としての三村氏は滅亡し、備中の大半は毛利氏の領土となり、南方の一部が宇喜多氏に与えられたようです。
そして、毛利氏に通じ三村氏討伐に協力した元親の叔父・親成は、備中兵乱後、当主・元親を諫止できなかった咎を受けて減封されたものの所領は一応安堵され、引き続き成羽鶴首城主の地位をも許されたそうです。その後、親成は三村本家の縁者を庇護したといいます。
三村氏の菩提寺
三村氏の菩提寺・源樹寺は、元親が父家親を弔うために創建した寺院で、現在の高梁市成羽町にあります。
※山門は、創建時には表参道南方百間(約180m)先の成羽川岸にあったそうで、当時の寺域の壮大さが想像できます。
石川久式と幸山城
久智のあとを継いだ久式は元親の妹婿で、備中兵乱のときには元親と運命を共にしています。
松山城が落ちると、 久式も一旦兒島常山城へ落ちようと友野高盛(後の岩見守)を頼りましたが、友野に裏切られ、追い詰められて自刃しました。
そして清和源氏の流れを汲むという備中石川氏は滅亡してしまいました。









