備中福山合戦と福山城

 備中福山合戦とは、南北朝時代の初期、福山城(備中国)を舞台に、大井田氏經(新田義貞の武将)が僅かの軍勢を率いて足利直義(尊氏の弟)の大軍と戦った合戦です。

合戦の経緯

 後醍醐天皇・護良親王・新田義貞・楠木正成・足利尊氏・赤松則村らによって鎌倉幕府が滅ぼされた後、後醍醐天皇を中心とした新政(建武の新政)が実現しましたが、ほどなく足利尊氏が建武政権に反旗を翻し、足利軍 vs 新田義貞らの官軍(後醍醐天皇方の軍)の戦いが始まりました。

 足利軍は、一旦は敗北して九州まで逃れたものの、すぐに勢力を回復して30万ともいわれる軍勢を擁し東上を開始しました。福山合戦はその途上の1336年5月にあった合戦で、福山城に籠城していた大井田氏經(新田軍の先鋒)の軍(1,500ばかり)に足利直義率いる20万の大軍が攻め寄せたのだそうです。このとき、籠城軍は小勢ながらよく奮戦し、足利軍は2万の死傷者を出したといいます。

 しかし、大軍に抗しきれず福山城は落城し、氏經は僅かに400ばかりとなった将兵とともに足利軍の布陣を突破し、戦闘を繰り返しながら本陣のある備前国三石城に逃れました。

 ※楠木正成が戦死した湊川の戦いは、この戦いの7日後のことでした。

福山

福山

 福山城は、現在の岡山県総社市にある福山(標高302m)の山上に存在した山城で、奈良時代から平安時代にかけて存在していた山岳寺院「福山寺」を備中の豪族・荘兼祐(庄常陸介)が城郭に改造したものといわれます。
 合戦当時は、足利方に加担していた荘兼祐が新田軍の先鋒大井田氏經に追い払われ、大井田軍が籠城していました。

現地の説明板より

湊川決戦1週間前 備中福山合戦

 海抜302mのこの福山は往古 神奈備山・加佐米山・百射(ひもい)山とか言われたが、山岳佛教が栄えた奈良平安期、報恩大師が頂上に福山寺及び十二坊を建て、伽藍が全山に並び繁栄を極め福山と呼ばれるようになった。

 後醍醐天皇念願の親政が復活したが、建武中興に加わった足利尊氏が論功行賞に忿懣を抱き、天皇支持勢力の新田義貞・楠木正成等と対立した。

 この結果、尊氏勢が九州へ敗走し、軍勢を立て直して再び京都を目指し、東上を開始した。

 福山合戦はその途上の延元元年5月に起こった。足利直義16日、朝原峠より攻撃を開始したが、城兵撃退す。17日四方より総攻撃をかけ、城兵は石火矢、岩石落し、弓矢にて2万餘の死傷者を出したが、新手入り変わり立ち変わり、遂に乱入され火をかけられ落城となった。

縄張図

現地案内板にあった縄張図

 大井田氏經1,000騎引連れ山下の直義の本陣になぐり込み奮戦したが、味方は100騎程になり、山上は火の海、氏經はこれ迄と、部下を集め三石の本陣に加わらんと、一方切り破り逃れた 福山落城後、直義は敗走する氏經を追い、板倉より辛川まで十余度交戦を続け、三石城へ逃れ去った。

 直義は、足利勢をここで休養させ、首実検をして戦功を賞した。討ち首1,353を数えたという。

太平記(国民文庫)などより

 備中福山合戦については、中世軍記物語の「太平記」に載っていて、その国民文庫本などから合戦の様子を窺うことができるようです。

・・・・福山(現在の岡山県総社市)に立て籠もる官軍(後醍醐天皇方の大井田氏經の軍)どもは、これ(足利の大軍が迫りつつあること)を聞いて、「この城はまだ完成しておらぬ、いずれにせよ、大敵を防ぐことができるとも思えぬ」と申せば、大江田式部大輔(大井田氏經)が、しばらく思案して申すには、「合戦の習い、勝負は時の運によるとはいえ、味方の小勢をもって、敵の大軍勢と戦えば、勝つことは、千に一つもなかろう。

福山城門跡

福山城門跡(基礎部分列石)

 とはいえ、国を越えて足利殿(足利尊氏)の上洛を防ぐために向かった者が、大軍勢が攻め寄せて来るからと聞き逃げ(聞いただけで恐れて逃げる)する訳にはゆかぬ。きっと一業所感(前世における同じ業によって,それに相当する同じ報いを受けること)の者どもが、この場所で皆死ぬべき果報なのであろう。
死を軽んじ名を重んずる者を人と申すのだ。皆々ここで討ち死にして、名を子孫に残そうと思い定められよ」と諌めたところ、紀伊・常陸・合田以下の者どもは、「申すまでもござらぬ」と了承して討ち死にの覚悟を決め、心中は清々しいものでした。

 やがて、五月十五日の宵より、左馬頭直義(足利直義:足利尊氏の弟)が三十万騎の軍勢で、勢山を打ち越へ、福山の麓四五里の間、数百箇所を陣に取って、篝火を焚きました。この軍勢を見ては、如何なる鬼神ともいえ、今夜落ちぬことはないと思われましたが、城の篝火も焼き止めず、なおも堪えると見えたので、夜が明けて後、

空堀跡

空堀跡

まず備前・備中の軍勢どもが、三千余騎で押し寄せ、浅原峠(現岡山県倉敷・総社市境にある峠)より攻め懸かりました。それでも城中は鳴りを静めて音もしませんでした。

「きっと落ちたと思うぞ。鬨の声を上げて敵の有無を確かめよ」と、三千余騎の兵どもが、盾の板を叩き、鬨を作ること三声、近付いて上がろうとするところに、城中の東西の木戸口から、大鼓を打って鬨の声を合わせました。外所に控えていた寄せ手の大勢はこれを聞いて、「源氏の大将が籠もる城ぞ、小勢なればと、聞き落ちはできまいと思っていたが、果たしてまだ堪えておるぞ。侮って手合わせの軍し損ずるな。四方を取り巻いて同時に攻めよ」と国々の軍勢が一方一方を受け取って、谷々峰々より攻め上りました。

井戸跡

福山城井戸跡

 城中の者どもは、かねてより覚悟の上のことでしたので、雲霞の軍勢に囲まれても少しも騒がず、ここかしこの木陰に立ち隠れて、矢種を惜しまず散々に矢を射たところ、寄せ手は稲麻のように立ち並んでいたので、挿さらない矢は一つもありませんでした。敵に矢種を尽くさせようと、寄せ手はわざと矢を射ませんでしたので、城の軍勢はいまだ一人も手負うものはいませんでした。
 大江田式部大輔はこれを見て、「勢力が尽きぬ前に、城を打ち出て、左馬頭の陣を一散らし駆け散らそうではないか」と申して、城中には徒立ちの兵五百余人を留めて、馬強の兵千余騎を引率し、木戸を開かせ、逆茂木を引き退けて、北の尾のとりわけ険しい方より喚いて駆け出ました。

 一方の寄せ手二万余騎はこれに駆け落とされ、谷底に馬を馳せ落とし、いやが上にも重なり倒れました。式部大輔はこれをば打ち捨て、「東の離れ尾に二引両(足利氏の紋)の旗が見えるのは、左馬頭に違いない」と、二万余騎の軍勢の中へ割って入り、長い時間戦いました。「ここにも左馬頭はいなかったか」と、大勢の中をさっと駆け抜けて味方の軍勢を見れば、五百余騎が討たれてわずかに四百騎になっていました。

 ここで城の方を遥かに見れば、敵がすでに入れ替わったと見えて櫓・掻楯に火が懸かっていました。式部大輔は兵を一カ所に集めて、「今日の合戦今はこれまでぞ、さあ一方を打ち破って備前へ帰り、播磨・三石の軍勢と一つになろう」と、板倉橋を東へ向かって落ちると、敵二千騎三千騎が、ここかしこに道を塞いで打留めようとしました。

土塁跡(基礎部分列石)

福山城土塁跡(基礎部分列石)

 四百余騎の者どもも、遁れぬところと思い切っていたので、近付く敵の中へ割って入り、駆け散らし、板倉川の辺より唐川まで、十余度まで戦いました。けれども兵はさほど討たれず、大将も無事でしたので、虎口の難を遁れて、五月十八日の早旦に、三石の宿に落ち着きました。

 左馬頭直義は、福山の敵を追い落として、事始めよしとたいそうよろこびました。その日一日唐川の宿に逗留して、首実検があり、生け捕り・討ち死にの首千三百五十三と記しました。・・・・

 ※ ここでは「太平記詳解」十六の巻「備中福山合戦の事」や 太平記(国民文庫)太平記巻第十六「備中福山合戦事」などの文章を少し現代文風にして、福山城の遺構の写真や解釈を加えたりしたものを載せています。

福山城跡

城跡の石碑

城跡の石碑(福山頂上)

城跡からの眺め

城跡からの眺め

門跡付近から

門跡付近から

土塁跡

土塁跡

大井田氏經の表忠碑

大井田氏經の表忠碑

案内図

案内図

 山上の城跡には、門跡や石列など福山城の遺構が僅かながら残っていて、案内板なども設置されていました。

登城(登山)

歴史広場

歴史広場

やよいの森階段と東屋

やよいの森階段と東屋

歴史広場少し上の駐車場

歴史広場少し上の駐車場

 やよいの森階段(直登階段)を登るには、歴史広場または少し上の駐車場を利用するのが便利みたいです。歴史広場から県道を渡って東屋のところから階段を上れば近いし、少し上の駐車場から県道を渡って遊歩道に入るのもよさそうです。
やよいの森階段

やよいの森階段(直登階段)

 1234段あるという階段は、延々と続いている感じがしました。
浅原峠からの登山道

浅原峠からの登山道

「備中福山合戦で足利軍が攻め上がるとき、この道を通ったかも知れない」とか想像しながら歩きました。


 参考資料 : 太平記(国民文庫)、太平記詳解、Santa Lab's Blog、現地の案内板、その他
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