上月城跡を訪ねて、上月城をめぐる攻防に思いをめぐらしました。
小城ながら播磨・美作・備前の三国の国境に位置する重要な城で、山名・赤松・尼子等が攻防を繰り返し、永禄年間(16世紀後半)には毛利氏の支配下に組み込まれ、毛利勢力圏の東方における事実上の最前線になっていたようです。
上月歴史資料館とその周辺
城跡探訪
登城
城跡
~上月合戦~
城方は救援に駆けつけた宇喜多直家の援軍3千と赤松政範の本隊7千の合計1万の兵で迎え撃ったものの、宇喜多軍は秀吉軍に散々に切り崩され(首数619を討取られたほか、雑兵たちは切り捨てられた)て敗走してしまいました。
そして、水の手も奪われて敗色濃厚となった城方は降伏を申し入れました。しかし、秀吉はこれを受け入れず、城の周りに「返り猪垣」(逃亡を防ぐ柵)を三重に設けて逃亡を防いだ上で城内に攻め込み上月城を落城(12月3日)させました。このとき、城兵の首をことごとく切り落とし、さらに、女と子供200人余りを見せしめとして子供は串刺しに、女は磔にして備前・美作・播磨三カ国の境目に並べ置いたといいます。
※ この残酷な仕打ちは「羽柴秀吉書状」に記されているので事実のようですが、これが信長の命だったのか秀吉自身の考えだったのかは明確でないようです。
秀吉はこの後、上月城を尼子氏の家臣である山中幸盛(鹿介)らに守らせたそうです。その後、幸盛が京都で待機していた尼子勝久を迎えに行き、尼子主従で再入城したようです。
※ この後「上月城に入った尼子氏は一時、宇喜多勢に攻められ撤退し、宇喜多は上月城を上月出身で武勇の誉れも高いという上月十郎景貞に守らせたものの、再び秀吉軍により落城し、再び尼子勝久、山中幸盛らが上月城に入った」という説もあるみたいです。
さて、前線の城を失った毛利氏は直ちに奪回の動きを見せ、翌天正6年(1578)吉川・小早川の軍勢3万が上月城を包囲(4月18日)しました。
これに対し、秀吉は急ぎ救援に向かい、高倉山城に陣をおいて毛利軍と対峙(5月4日)しましたが、三木城の別所長治が織田方から離反し毛利方へ転じたため、三木城攻略に軍を振り向けなければならない状態で、信長の命により高倉山から兵を引き(6月26日)ました。
そして孤立無援となった上月城は、城兵の助命を条件に開城・降伏(7月5日)し、尼子勝久兄弟等は切腹し、山中幸盛(鹿介)は、捕らえられ毛利の陣へ護送の途中、高梁川の阿井の渡しで殺害されました。
この後も織田方と毛利方の争いは本能寺の変が起こる天正10年(1582)まで続いたものの、上記の天正年間の攻防(上月合戦)以後は上月城が歴史の表舞台に登場することはなかったそうです。
織田・毛利の大勢力の間に立たされた地域の土豪たちにとって、どちらに味方すれば生き残れるかの判断は実に悩ましいところだったでしょう。
上月城主の赤松政範もどちらに与するか大いに迷ったそうですが、「もしも、わが命運開けずとも、毛利殿に頼ることがわが行く道なり」と決めて秀吉と戦い、敗れて「妻を刺し殺し、一族家臣とともに自刃して果てた」といわれます。















