備中高松城は、天正10年(1582年)羽柴秀吉に水攻めされた城として知られ、当時 毛利氏配下の清水宗治が守っていました。
備中高松城の戦い
また、城主の清水宗治は忠義に厚い武将で、降伏を勧める秀吉に対して死を覚悟の上で頑として応じなかったといいます。
駆け付けた毛利の援軍(毛利輝元・小早川隆景・吉川元春らが率いる軍勢)も、備中高松城が堤防内にできた湖に浮かぶ浮城のようになっている状況に為す術もなかったようです。
そして、毛利方は宗治に対して「救援が不可能なので秀吉に降伏するよう」に伝えましたが、宗治は受け入れなかったといいます。
彼我の戦況は明らかに毛利方が圧倒的に不利な状況で、毛利方は支配地の割譲と城兵の助命を条件に秀吉に和議を申し込みました。
清水宗治の切腹は条件とするものの、国分けについては「伯州は矢走川を境に、備中国は高橋川を限って中国一円を毛利家が支配されるがよい」と譲歩することで和睦しようというものでした。
秀吉は、信長の死を徹底的に秘し、毛利の軍僧安国寺恵瓊を秀吉陣に招いて上記の和睦案を提示したといいます。
しかしその和睦案も、輝元らは「国分けのことはよいが、宗治は切腹させられない」と拒否するので、恵瓊は「秀吉が和睦の条件に宗治の切腹を求めている」ことや「毛利方が苦しい戦況の中、宗治の切腹を拒否している」ことなどを宗治に伝えたのでした。
こうして6月4日巳刻(午前10時頃)清水宗治は、月清入道(宗治の兄)・末近信賀(毛利の軍監)・難波田兵衛(宗治の弟)と共に小舟に乗り込み、秀吉から贈られた酒肴で最後の盃を交し、「誓願寺」の曲舞を悠然と謡って(月清らもこれに唱和した)舞い、辞世の句を朗詠して心静かに切腹したと伝わります。(他の者も思い思いに切腹し、首は桶に納められて秀吉から検使として遣わされた堀尾茂助に渡されたといいます)
中国大返し
清水宗治が切腹したことにより講和が成立し、秀吉は、毛利方に「約束は必ず守ります」という3カ条からなる血判起請文を出して撤退の準備を始めたそうです。諸説あるものの、5日は毛利軍の動きを見極めるために陣をそのままに保ち、 6日になってから水攻めの堤防を切り、世に云う中国大返しを開始したとする説が有力だと思われます。
いずれにしても、毛利方が信長の死を知ったのは秀吉が中国大返しを開始した翌日あたりのようで、吉川元春は信長の死を隠して講和を結んだ秀吉に激怒して秀吉追撃を主張したといいます。
しかし、この頃すでに毛利方には村上水軍など調略に応じて織田方になびく者がいたり、今後の動きを予測し難い宇喜多氏の存在が不気味だし、さらに豊後の大友宗麟に背後を脅かされる不安もあるなど、とても秀吉を追撃できるような状況ではなかったようで、小早川隆景は「実力ある秀吉を追撃するという危険な賭けをするよりも、和睦の約束を守り秀吉に恩を売っておくのが得策」と判断して元春を説得し、輝元もそれを支持したと考えられています。
参考資料 : 吉備群書集成.第參輯 中國兵亂記,同.第四輯 清水宗治事蹟,高松城址公園資料館の資料,その他




