備中高松城は、織田信長の命を受けて中国攻めを進めていた羽柴秀吉が黒田官兵衛の献策といわれる水攻めによって攻略した城として知られています。
備中高松城は、現在の岡山市北区高松にその城址があります。現在、その一部が高松城址公園として整備され、他の大部分は住宅地や農地・道路などになっています。
舟橋
国道180号線の「備中高松西」の交差点を北に入って進むと、高松城址公園の駐車場(南側)の少し手前に舟橋という史跡がありました。
高松城址公園
上の備中高松城跡の図で、南側の三の丸跡にある駐車場に車を置いて、本丸跡の方へゆるゆると歩いていきました。
清水宗治胴塚
北側の駐車場から少し北へ進むと、住宅街の中に胴塚がありました。そして、傍に設置されている案内板に次のように書いてありました。
史蹟 胴塚の由来
時に天正10年(1582年)6月4日、自決した高松城主、清水長左衛門宗治公の首級なき胴体遺体は舟上のまゝ本丸に帰って来た。
この主にしてこの臣あり 主を思う眞情躍如たるものがある。
蛙ケ鼻
秀吉は、黒田官兵衛の策によって高松城を水攻めすることを決断し、長さ3kmにわたって、高さ7m、上部の幅11m、底部の幅22mの堤防を築いたそうです。
「土俵一俵運んでくれば銭百文と米一升を与える」という破格の好件に俄か人夫が殺到し、昼夜兼行の突貫工事により、堤防は僅か12日間で完成したといいます。築堤工事には銭63万5040貫文・米6万3504石の経費を要したそうです。
蛙ヶ鼻は、石井山の南に位置し、堤防の唯一残った史跡。ここから西に堤防が造られたようです。
発掘調査の結果を踏まえて、堤防の基底部を再現して見られるようにしてありました。
現在この場所は史跡公園となっていて、駐車場(3台程度)やトイレも設置されています。
秀吉本陣跡(石井山)
高松に到着した秀吉は、龍王山(現在の最上稲荷のある山)に着陣し、その後、高松城が一望できる石井山中腹の持寶院に陣を移しました。
本陣跡に立って、「秀吉もこの場所からこんな風に見ていたんだろうな」と思いながら、高松城跡の方を見ました。
(右の写真は倍率ほぼ1倍で撮ったもので、黄線で囲んだところが「清水宗治公自刃之阯」の碑がある場所、青線で囲んだところが本丸跡)
清水宗治首塚跡(石井山)
・・・秀吉卿は羽柴山(秀吉本陣)で宗治の首を実検され、 「名誉ある勇士である。武士たる者はこのようで有りたいものである。・・・古今の武士の鑑である」 と大変誉め称えられ、持宝院の山内に一堆を築き、石塔を建て置かれ、近侍・武将に回向を仰せ付けられた。以来、宗治の忠義の誉れは不朽のものとなった。秀吉卿の情けを感じ、一族の者は嬉し涙を流した。・・・
とあり、宗治の首は秀吉が本陣を置いた石井山持寶院のこの場所に葬られたことがわかります。
太閤岩(石井山)
秀吉本陣のところから500mほど歩いて太閤岩へ行きました。
秀吉本陣から太閤岩へ続く道は、歩きやすい道でした。
「当時、この場所に見張りを置いていたのかも」と思いました。
現地(現在のJR足守駅近くの場所)には高松城水攻め水取入れ口遺跡と書いた標柱がありましたが、遺構などは確認できませんでした。
参考資料 : 中国兵乱記(加原耕作氏の現代語訳),高松城址公園資料館の資料,現地の案内板,その他