加茂城に行きました

 加茂城(別名 鴨庄城)は、足守川沿いに開けた沖積平野の中(現在の岡山市北区加茂)に築かれた平城で、戦国時代末期には、西進する織田方軍勢に備えて毛利方が備中南東部の国境沿いに構えた境目七城のひとつになっていました。

※ 境目七城とは、宮路山城、冠山城、備中高松城、加茂城、日幡城、庭瀬城、松島城 の七城


 当時の加茂城は東西に延びる連郭式城郭の周囲に堀を廻らせた沼城であったそうですが、現在、城跡の一帯はほとんどが農地(私有地)になっていて、僅かな一画(写真の土壇部分)を二の丸跡として岡山市が管理しているようです。

加茂城二の丸跡

土壇部分に「加茂城二の丸跡」の案内板がありました

 天正10年(1582)秀吉の備中攻略に際し、備中高松城の南方2km余りに位置するこの城には、毛利方の重要な防衛拠点として3,200余の兵が配備され、本丸には毛利氏から派遣された桂広繁、西の丸には上山元忠、東の丸(二の丸)には加勢の生石治家が籠城していたといいます。

 秀吉が宇喜多氏の重臣戸川平右衛門を使って調略を仕掛けたところ、桂広繁上山元忠は毛利氏への忠節を示して再三の調略を断固として拒否しましたが、生石治家は調略に応じて東の丸に宇喜多勢(秀吉方)を引き入れ、本丸の桂広繁へ使者を送って退城を勧告したそうです。

加茂城跡の一帯

加茂城跡の一帯

 それに対して、桂広繁は「生石が秀吉に味方したいと懇望していたことは、すでに承知していたことであり今さら驚いてはいない・・・この城を攻め取って手柄を立て、秀吉への土産にされたい」と退城を拒否して、生石治家の居る東の丸へ火矢を射かけ、雨のように鉄砲を撃ち掛けたそうです。

 そして、火が東の丸の陣屋に燃え付いて秀吉方(生石・宇喜多勢)が東の丸から引き退くところに突入し、秀吉方の兵数十人を討ち取って撃退し、加茂城を守ったといいます。

※ 中国兵乱記からは概ね上記のように桂広繁と上山元忠が秀吉方の軍を撃退したことが読み取れますが、「秀吉軍の攻撃にあって城中で内紛が起き、ついに落城した」という説もあるみたいです。


参考資料 : 中国兵乱記,現地の案内板,その他

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