冠山城は、天正10年(1582年)羽柴秀吉の備中高松城攻めの前哨戦で攻められた城で、毛利方の境目七城の中でも屈指の激戦の末に陥落した城として知られています。
城跡は、足守川東岸近くの標高40mほどの独立丘陵(現在の岡山市下足守)にあり、東側にある登山口から本丸跡まで歩いて登りました。
天正10年4月17日冠山城は、織田軍2万、宇喜多勢1万に囲まれ、下足守の山や谷は陣馬で埋まった。
守りは 城主林三郎左衛門、祢屋七郎兵衛、松田左衛門尉、鳥越左兵衛、三村三郎兵衛、竹井将監、舟木與五郎、難波惣四郎、岩田多郎兵衛、権寂和尚、祢屋與七郎、佐野和泉守、守屋新之丞、祢屋孫一郎、庄九郎、秋山新四郎など300騎、総勢3,600人で、羽柴秀吉の旗本杉原七郎左衛門、宇喜多忠家らと戦った。
城内より打ち出す銃火ははげしく、また城兵には豪の者多くめざましい働きにより、寄せ手の犠牲は大きく、一時攻めあぐんだ。
4月25日、不幸にして城内より出火し、火は燃え拡がり城中大混乱となった。城主林三郎左衛門は最早これまでと城兵に別れを告げ自決した。竹井将監、鳥越左兵衛、秋山新四郎、舟木與五郎、難波惣四郎、権寂和尚など将兵139人は自刃或いは壮烈な討死を遂げた。
加藤清正一番乗りの功名話、荒武者竹井将監が加藤清正と激闘ののち戦死したことなど激戦の状況が戦史に詳しく伝えられている。
小山ながら難攻の冠山城も遂に落城した。林三郎左衛門は、行年51歳、備中の国を半国与えようという羽柴秀吉の誘いをも断り、毛利並びに小早川隆景に義を貫いた。武士道に徹した冠山の城主及び将兵を心から称えたい。
冠山合戦については多くの書物に書かれているようですが、上記の説明文にもある 城内より出火 の原因について、中国兵乱記には(秀吉方の)伊賀忍者が城中に火をつけたように書いてあり、太閤記には(城方の)黒崎團右衛門が謀反を起こして城に火をつけたように書いてあります。
以下は、太閤記の「冠山落城」のところの文章を加除したり現代文風にしたりしたものです。
宇喜多勢は一息に責め崩そうと攻め登っていきましたが、籠城の毛利勢が小勢ながらも少しもひるまず防戦するので、攻めあぐねる模様になりました。
これを見た加藤清正は、「この城は簡単に落ちるようには見えない。無理攻めすれば味方の兵が多く死ぬばかりだ」と宇喜多勢と示し合わせて味方の兵をさっと一度に退却させたのです。(城方はこれを「敵の計略かも知れない」と用心して敢えて追撃しなかった)
その夜、城中に出火が有って猛煙が立ち上り、城中は火を防ごうと大騒動になりました。
清正は、猛煙が立ち上るのを見て「城中に謀反を起こして城に火をつけたものがいるに違いない」と察し、「今が千載一遇の攻め時だ」と冠山への突撃を命じました。
そして、清正は一番手で城壁の側にめぐらせていた堀際へ駆け行きました。するとその時、城門の扉が内側から開き、一人の毛利方の武者が飛び出してきて、「降参々々」と叫びながら清正の前に平伏しました。
城方はこれを見て「反賊は黒崎團右衛門だ。討ち取れ!」と、5~60騎討って出ましたが、清正が「降参の者を討たすな」と命じて反撃し、城中に乱入しました。そして搦手を討ち破った宇喜多勢とともに攻めたので、城将鳥越左兵衛・松田左衛門尉は討死し、林三郎左衛門は高松城へ落ちて行き、冠山城は落城しました。
清正は、降参した武者の黒崎團右衛門を秀吉の本陣へ引き連れ、それまでの成り行きを説明しました。
もともとこの黒崎團右衛門は芸州吉田の土民でしたが、團右衛門の妹が毛利家に宮仕えしていたとき、土民にしては稀な美貌だったので毛利輝元の目にとまり寵愛されるようになったといいます。
その関係で兄の團右衛門も毛利家に仕えるようになり、足軽頭に任じられて冠山城に来たのですが、籠城の始めに酒宴が催されたとき、日頃この團右衛門が功がないのに足軽頭に取り立てられているのを憎々しく思っていた松田左衛門が酔いに任せて満座の席で團右衛門を辱しめたのでした。
そのことがあって松田左衛門に恨みを抱くようになった團右衛門は、「この城(冠山城)を敵に攻め落とさせれば、松田左衛門はこの城の大将だから主君に対して申し開きが出来ず困るだろう」と考え、城に火を掛け、清正方の軍勢の為に門を開け、清正の前に出て降参したというのでした。
そして、團右衛門は陣外へ引立てられ首を刎ねられました。
黒崎團右衛門にまつわる話は、加藤肥後守清正一代実記にも似たような筋書きで記載されていますが、毛利方の中島大炊助が書いた中国兵乱記には記載されていないようです。この話が実話なのかどうかも黒崎團右衛門が実在した人物なのかどうかもわかりません。
参考資料 : 太閤記,加藤肥後守清正一代実記,中国兵乱記,現地の説明板,その他





