常山城は、毛利・宇喜多連合軍 vs 三村勢 の激戦(備中兵乱)において最後に落城した三村方の城で、現在の岡山県南部の常山(標高307m)の山頂一帯にその城跡があります。
常山城と鶴姫伝説
常山城には、女軍を率いて戦ったという鶴姫の伝説があります。
常山城が毛利・宇喜多の大軍に囲まれたときは、備中兵乱の最終局面で、既に他の三村方の諸城は落城しているという状況でした。
天正3年(1575)6月7日 高徳は覚悟を決め、落ち着き払って城内で酒宴を催し別れの杯を交わした後、「一類すべて自害し、名を後代に残したく、検使を給わりたい」と敵陣に告げたといいます。元親に謀反を勧め三村一族を滅亡に導いた張本人であった高徳に、「生き永らえる」という選択肢は最早なかったことでしょう。
そして、高徳の一族は次々と自害していき、その凄惨な様を見ていた鶴姫は「武士の妻となって、最後に敵の一騎も討たないで自害するのは口惜しい」とばかりに敵勢へ切りかかっていったのだそうです。このあたりのことについて<新釈備中兵乱記>には次のように記されています。
・・・<前略>・・・
高徳の継母は五十七歳であったが、まず一番に自害した時、・・・<中略>・・・
縁の柱に刀の柄を縛りつけ、そのまま走り掛かって貫いたところに、高徳が走り寄って、 「五逆の罪は恐しいが、やむを得ない」 と言って首を打ち落とした。
さて、嫡子源五郎高透は、生年十五歳であった。父高徳の介錯をしたいと思ったが、後に残ったなら、少年であり未練心も起こるのではないかと思ったのか、 「逆ではありますが、先に腹を切りたい」 と言うと、高徳はこれを聞いて、 「愚息ながらも神妙な奴だ」
・・・<中略>・・・
と暫く涙を流し、袖を濡らしていた。高透も跪いて涙を押し留め、そのまま雪のような白い肌を押し肌脱ぎ、腹十文字に掻き切り、うつ伏せになるところを、高徳が首を打ち落とした。
高徳は八歳になる高透の弟を傍に抱え、心臓を二突きして殺した。
高徳の妹に十六歳になる姫がいた。芸州の鼻高山の大将は高徳の弟であり、この姫には鼻高山へ落ち行くよう勧めたが、 「思いも寄らぬことです」 と言って、老母の縛りつけていた刀で乳の辺りを貫き、これも同時に自害した。
次に、高徳の女房は、修理進元親の妹で、日頃から男にも勝る勇気と力を持っていた。
「私は女性の身ではあるが、武士の妻や子が最後に敵の一騎も討たず、むざむざと自害するのは返す返すも残念である。況んや、三好修理太夫の従弟は叛逆した一族であり、女の身ではあってもひと軍しないわけにはいかぬ」
と鎧を着け、上帯を締め、太刀を佩き、長い黒髪を解いてさっと乱し、三枚兜の緒を締め、紅の薄衣を取って着て、裾を引き揚げて腰で結び、白柄の薙刀を小脇に挟んで広庭に躍り出た。これを見た春日の局やその他の青女房、端下の者に至るまで三十余人は、
・・・<中略>・・・
「・・<中略>・・どうせ散る花なれば、同じ嵐に誘われて、死出の山、三途の川までお供しよう」と髪を掻き乱し、鉢巻を締め、ここかしこに立てかけてあった長柄の槍を携えて三十余人が馳せ出すと、長年恩顧を蒙っていた家僕共もこれを見て、八十三騎が一緒に死のうと馳せ出した。
こうして鶴姫たちは、本丸近くまで迫っていた小早川の先鋒浦野兵部丞宗勝の率いる七百余騎の中に切り込み、暫く戦っているうちに次第に討ち取られていきました。
鶴姫は、宗勝に一騎討ちの勝負を挑みましたが「あなたは女である。武士が相手には出来ない」と相手にされず、従兵も多くが討たれ自身も傷を負い「最早これまでなり」と宗勝に三村家重代の名刀”国平の太刀”を進上して死後の弔いを頼み、本丸に引き上げ自害したといいます。
・・・<前略>・・・
こうして、西に向かって手を合わせ、
「自分は西方十万億土の弥陀を頼むのではない。巳心の弥陀、唯心の浄土が、今ここに出現している。あゝ、仏も生命は露のようであり、また稲妻のようなものであると説いておられる。誠に”夢の世に幻の身の影留りて、露に宿かる稲妻の、はや立ち帰る元の道”である。南無阿弥陀仏」
と念仏を唱え、太刀を口に含んで臥してしまったのは、例の少ないことであった。さて、高徳も西に向かい、
「南無西方教主の如来、今日三途の苦を離れ、元親・久式・元範・実親と同じ蓮台に迎えたまえ」
と念仏を唱えながら、腹を掻き切ると、舎弟小七郎が介錯し、小七郎もまた自害して高徳の死骸に寄りかかり、同じ枕に伏せた。見る人、聞く人、それぞれ皆涙を流さぬものはなかった。・・・<後略>・・・
このとき、元親(三村元親:三村家当主 松山城主)・久式(石川久式:妻が元親の妹 幸山城主)・元範(三村元範:元親の弟 楪城主)・実親(上田実親:元親の弟 鬼身城主)らは、それぞれ既に切腹や討死していました。
城跡探訪
登城
というわけで、上地図の「常山登山口」から歩いて登りました。(駐車は、登山口の手前にあったスペースを利用しました)
登山道には所々に石が敷かれていたので、「もしかして当時の登城道かも」と思いました。
登山道を暫く登ったところに、「常山城の水の手であり、一度も涸れたことがない・・」という底無井戸がありました。
底無井戸のところから少し登って右に分岐したら車道に出たので、そこから「栂尾二の丸」まで車道を登りました。車道には落石がたくさん転がっていました。
栂尾二の丸付近
栂尾二の丸の場所は駐車場になっていましたが、車道が通れなくなって相当の年数が経っているらしく、雑草が伸びて荒れた状態になっていました。そこに常山城跡の案内版がありました。
常 山 城 跡「児島富士」と呼ばれるこの常山(標高307m)の山頂一帯に、「常山城跡」はあります。城郭は山頂の本丸を中心に合計14の曲輪で構成される「連郭式山城」です。
築城の時期は戦国時代の初めと推定され、上野氏・戸川氏・伊岐氏等の城主が知られています。女軍の戦いは1575(天正3)年のことで、この戦いで当時の城主上野氏は毛利氏によって滅ぼされました。
その後、常山城は毛利氏の支配下に置かれましたが、毛利氏の築城技術と言われる竪掘や堀切の遺構は発見されていません。 恐らく毛利氏以後城主となった宇喜多氏家老の戸川氏の手により、現存する常山城が整備されたと思われます。
常山城は児島半島が島であった時期には、備前本土との海峡を抑える軍事上の重要な拠点でしたが、やがて瀬戸内海の航路が重視されるようになり、1603(慶長8)年に廃城となりました。 城は解体され、廃材の一部は新たな監視の拠点となった下津井城の修理に利用されたと伝えられています。
北二の丸
・・・34基のその小さな墓を見ながら、しばし侍女たちの美しくも悲しい死を思いやりました。
本丸付近
本丸は、高徳の一族や侍女・城兵らが最後の戦いをした後に自害した場所です。
高徳が切腹した場所と伝えられる「腹切岩」があり、・・・肥前守隆徳本城にある大石の上に上りて腹かき切れば、弟小七郎介錯して其身も腹切りて伏にけり・・・と備前軍記にある大石とはこの「腹切岩」のことだろうと思いました。
「腹切岩」の傍らには「城主上野隆徳公碑」が建立されていました。
しかし、辺りは笹や雑草が伸び枯れ木が目立つ荒れた様相を呈していて、周囲の石垣も竹や雑木に邪魔されて見えにくくなっていました。
見晴らしのきくはずの場所なので、当時はここから敵の動きがよく見えていたと思われましたが、本丸に設置されている展望台からの眺望も、伸びた木や竹によってかなり制限されていました。
石垣は、山城のものとしては比較的よく残っている感じでしたが、たぶん高徳や鶴姫の時代のものではなく、もっと後代のものなのでしょう。
惣門丸方面
本丸から惣門丸へ下る道は歩きやすく整備されていましたが、途中にあったいくつかの郭は竹藪のようになっていました。
惣門丸も見晴らしのいい位置にあるので、「当時は、海がもっと近くまで迫っていて、海を渡って来る敵を含めて広範囲に見張っていたのだろう」と思いました。
千人岩
常山城にいた兵の多くは高徳を見捨てて逃げたようですが、この場所で討ち取られた兵も何人かいたことでしょう。
参考資料 : 新釈備中兵乱記(備中兵乱記、中国兵乱記)、備前常山軍記、備前軍記、その他
※備中兵乱のときの常山城主は、備中兵乱記や備前常山軍記では三村上野介高徳、現地の案内板や石碑では上野肥前守隆徳、中国兵乱記では上野備前守隆式、備前軍記では上月肥前守隆徳と表記されていましたが、この記事では三村上野介高徳としました。