備中の名門三村氏について、ゆかりの地を訪ねたりしながら、その興亡に思いをめぐらしました。
星田郷に入部して
備中国星田郷は、現在の岡山県井原市美星町星田にあたる地域です。三村氏は、初めて備中に入って以来、200年余りを星田郷に籠居していたと考えられます。
地元の人の話では、竹藪のところに「三村氏屋敷跡」があるということでした。しかし、その竹藪は相当に鬱蒼としていたので足を踏み入れるのは断念しました。
家親の代に・・・
成羽に進出して
備中に移住した三村氏は、家親の代の天文2年(1533年)成羽の庄を奪取し、本拠を星田郷から成羽の庄に移したのだそうです。
そして、山上にあった「鶴首城」の拡張・整備を進めるとともに、麓の平地に自分の居館や郎党・家人の屋敷を造ったといいます。
その平時の住居があった「三村氏居館跡」は、現在の成羽町内にあります。
三村氏居館跡
三村氏の平時の住居であった居館は、成羽町内に残る大手門付近の跡や残存土塁の位置関係から、相当に大規模なものだったことが分かります。
鶴首城跡
成羽に進出した三村家親は、鶴首城を拠点にして高梁川流域に次第に勢力を伸ばしていきました。
そして、天文21年(1552年)毛利氏の傘下に入り、「これで備中一国は毛利のものとなったも同然である」と毛利元就を喜ばせたといいます。それ以降、毛利氏の支援を得て備中における尼子氏など他勢力を次々と駆逐していき、毛利氏からの信頼を厚くしていきました。
松山城を本拠として
そして、家親は備中をほぼ統一し、備前や美作にも侵攻するなど、戦国大名として名を轟かせるまでになったようです。
※三村孫兵衛親成は、頭脳明晰で思慮深く、兵法に精通していて、家親の軍師(参謀)役だったといいます。
興善寺にて
毛利氏を後ろ盾にして快進撃を続けていた家親でしたが、美作国の興善寺に在陣していたとき、備前の宇喜多直家の放ったスナイパー(遠藤又次郎・喜三郎の兄弟)に狙撃され、暗殺されてしまいました。
(又次郎は、「鉄砲の腕もあり、家親の顔を知っていて、美作の地理にも詳しい」という三拍子揃ったスナイパーだった)
※直家は、三村家親に支配地を脅かされ危機感を持っていたが、戦上手の家親と正面から戦うのは不利だと判断して、暗殺という手段を選んだと考えられています。
~~家親は、永禄9年(1566年)2月5日、興善寺の本堂で、軍評定の後、仏壇の腰板にもたれかかって居眠りをしていたところを、遠藤兄弟に短筒の火縄銃で胸を撃ち抜かれた~~
ようです。
このとき、家親に随行していた孫兵衛親成の機転で、家親の死は秘され、三村方の大軍は統制を失うことなく無事に撤収することができたようです。
※家親の死が秘され、三村軍に動揺した様子が見られないため、直家は「暗殺成功」の報告をなかなか信じなかったそうです。
しかし、やがて家親の死が明らかになると、直家は遠藤兄弟を破格の高禄で召し抱えたといいます。