備中の名門三村氏について、滅亡へと傾斜していく一族の運命に思いをめぐらしました。
そして、「三村家の総帥については、家親の(長男元祐は既に他家に養子に出ていたため)次男の元親とし、従来通り三村孫兵衛親成が軍師となり、後見人を兼ねる」や「弔い合戦については、暫く時機を待ち、元親兄弟の成長の上に是を大将として一戦する」が決まったようです。
三村五郎兵衛の事
※このとき、親房らは一途に、討死を覚悟して近くの禅院に赴き、松峰和尚という禅僧から末期の一喝を受け、法名を過去帳に記して出陣したのでした。
そして、親房ら一同は四方八方に奮戦し敵側に死者47人負傷者百余人という損害を与えましたが、三千騎の宇喜多軍の前に全員はなばなしく戦死(殉死)したのだそうです。
元親の代に・・・
明禅寺城の戦い
一方、宇喜多直家は、「いずれ三村方が大挙して決戦を挑んでくるに違いない」と考え、その備えとして永禄9年(1566)明禅寺山(現在の岡山市中区沢田)に城を築いていました。
この明禅寺城こそ三村氏・宇喜多氏の命運を決する戦の要となる城で、永禄10年(1567)直家は、「ここに三村の全軍を誘い出し、宇喜多の総力を挙げて殲滅する」という戦略のもとに、謀略を使って三村の全軍を明禅寺城におびき出しました。
三村方は、「今こそ直家を討取り、遺恨を晴らして備前を奪取しよう」とばかりに大軍を催し、庄元祐(元親の兄)の率いる七千余を前軍として明禅寺城への進出を図り、石川久智の五千余を中軍として直家勢の背後を狙い、総大将三村元親の率いる八千余が宇喜多勢の留守を窺い沼城を乗取ろうと計画していたようです。
しかし、宇喜多直家の謀計と巧みな用兵に対し、三村方は、元親の呼びかけで集まった各地の豪族集団に過ぎなかったため、統制を欠いて多くの兵を討ち取られ大敗してしまいました。
生き残ることが最優先であり「強者に属する」「勝つ側に与する」の原理によって三村氏の傘下に入っていただけの小豪族の多くに三村氏に対する強い忠誠心があるはずもなく、この戦いに駆り出された小豪族の寄せ集め軍団でも、先陣が崩れて敗戦の兆しが見えると、後陣の兵が騒ぎ立て逃げ支度を始める有様だったようです。
この合戦は「明禅寺崩れ」とも呼ばれ、この合戦を境として、三村氏の勢いは失速し、代わって宇喜多直家が盛運に向かうことになったようです。
しかし、元親は新見という新しい地域に領土を広げながら、その後も毛利氏を後ろ盾にしてよく戦い、依然として備中に大きな勢力を保持していたようです。元亀2年(1571)には、松山城も奪い返しています。
毛利・宇喜多の同盟
元亀3年(1572)三村氏にとって驚愕の事態が起こりました。主家毛利氏が三村氏の仇敵宇喜多氏と結んだのです。しかも、毛利氏は宇喜多氏との同盟に際して、三村氏の勢力圏にあった一部地域を三村氏から取り上げて宇喜多氏に与えるという三村氏にとって屈辱的な仕打ちをしたのでした。それは、「三村が血を流して切り取ったところはすべて三村に与える」という元就と家親の約束を一方的に反故にするものでした。
※元親はこの毛利氏の不条理な措置に不満を抱き、三村氏と毛利氏との間は急速に冷えていったといいます。
吉川元春(毛利元就の次男)は、「毛利が宇喜多と同盟を結ぶことになれば、三村は毛利を離れざるを得なくなる。今まで毛利に忠節を尽くしてきた三村を捨て、奸人の直家を迎えるとは、義から外れる行いである」と反対したそうです。
しかし、毛利氏の山陽道守将は小早川隆景(元就の三男)だったので、山陰道守将の元春の意見より隆景の意向が優先されたようです。
魔の誘惑
そして悲劇への歯車が不気味に回り始めました。天正2年(1574)毛利氏の措置に不満を持つ元親のもとに織田信長から誓紙が届いたのです。
それは「西国往返の通路を塞いで将軍義昭の帰洛を妨げ、織田家に忠節を尽くしてくれるならば、やがて信長が大軍を率いて中国筋を追討する。そのとき備中・備後の二国は元親の支配地とする」というような内容でした。
しかし、武田氏や一向一揆に悩まされていた当時の信長に大軍を中国筋に差し向けられるほどの余裕はなく、その誓紙は「毛利が義昭を担いで東進するのを少しでも遅らせたい。そのために三村を捨て石に使おう」との魂胆で信長が発した空手形に過ぎなかったのです。
運命の評定
信長から届いた誓紙に小躍りするばかりに喜んだ元親は、信長の助力を得て直家を討ち年来の鬱憤を晴らそうと、松山城に一族を集めて評議しました。
このとき、その誓紙が三村を捨て石に使おうとする信長の謀だと見抜いていた三村親成(元親の叔父)は、そんな謀に乗って長年誼を通じてきた毛利に背いては一大事だと「信長は目先の難を逃れるために当家を味方に取り込もうとしているだけだ。・・・」と、しきりに諫言したそうです。
しかし、父家親を暗殺されたうえ兄元祐も宇喜多に討たれて直家への恨み骨髄に徹していた元親には、その道理にかなった諫言を謙虚に聞き入れる冷静さが無かったようです。
こうして、元親は、親成や一部重臣の反対を押し切って、一族を滅亡へと導く無謀な決断をしたのでした。
そして悲劇の幕は上がりました
親成・親宣父子は、身の危険を感じて成羽へ逃げ帰り、さらに「これは思いもしないことになった。我が身の浮沈はここで決まる。将軍へ注進して身の難を逃れよう」と鞆の津へ馳せつけ、将軍足利義昭へ元親が謀叛を起こしたことを注進したそうです。
※<備中兵乱記>によると、親成の行動は上記のようになっていますが、「将軍足利義昭が鞆に滞在したのは天正4年(1576)から」という異説もあり、親成が注進した相手は義昭ではなく、小早川隆景であった可能性もあります。