備中の名門三村氏について、その滅亡への軌跡に思いをめぐらしました。
三村氏の滅亡は、元親が親成らの反対を押し切って無謀な決定をした時点で約束された運命となったようです。
元親が謀叛の決定を下したのに対し、三村親成父子の他に、作州月田山の楢崎弾正忠元兼(元親の妹婿)や、備中国穴田城主赤木蔵人らもすぐに毛利側についたそうです。
元親の無謀な決断に対しては、三村傘下の備中諸城の主たちにも、元親に従って大勢力の毛利に反逆することに戸惑いや不安が生じたことでしょう。
三村方では、頼みとしていた信長や阿波の三好からの援軍も来ず、勝利の望み薄い戦いになることは次第に明らかになっていきました。
それでもなお一万騎ほどが元親のもとに集結したことは、まだそのときは傘下の武士団に三村氏への忠誠心がそれなりにあったということなのでしょう。
元親は、傘下の軍勢を三村方の諸城に配備して、本拠の松山城も、短期間のうちに工夫を凝らして鉄壁の防備を固めたといいます。
備中兵乱と三村氏の滅亡
天正2年(1574)11月上旬に元親謀叛が知らされてからの毛利氏の行動は素早く、小早川隆景を総大将として備中に8万の大軍を派兵し、同年冬から翌3年にかけて、備中松山城をはじめとする備中諸城で、毛利軍 vs 三村勢 の激戦(いわゆる備中兵乱)が展開されました
※毛利氏の素早い派兵は、織田氏や四国の三好氏から三村氏への援軍が来ないうちに早く決着をつけてしまおうという思惑があってのことと思われます。
猿掛城の戦い
天正2年(1574)12月 毛利勢の宍戸備前守隆家(毛利元就の娘婿)が大軍を率いて押し寄せたとき、三村兵部充が三百余の軍勢で守っていました。
猿掛城は名だたる難攻不落の堅城で、三村方はしばらく城を支えていたようですが、毛利方が無駄な兵力の損害を嫌って降服勧告をしたところ、三村兵部充らは松山城に撤退したといいます。
斎田(佐井田、才田)城の戦い
斎田城は、現在の岡山県真庭市にある願成寺の南西に聳える標高340m程の山に築かれ、戦国時代に備中北部攻防の中心となった城で、天正2年(1574)12月 毛利勢が三村親成を先導にして押し寄せると、城主三村左京は城を捨てて、松山城へ逃げ込んだといいます。
(斎田城を攻めたのは庄勝資だという異論もあります)
国吉城の戦い
天正2年(1574)12月 三村孫太郎親宣(三村親成の嫡男)を案内者とする二万の毛利勢が押し寄せましたが、城兵は少しも怯まず戦いました。
戦いは一進一退を繰り返し、双方に多くの死傷者が出ました。城方は大量の弓矢や石を敵に打ち込み、投げつけ、鉄砲も用いて激しく防戦しましたが、寄せ手の毛利方は大砲を担ぎ上げ、数千騎が四方の山々に上り太鼓を打ち鳴らして鬨の声を挙げ、楯を並べて果敢に攻め立ててきました。そして大晦日の夜半頃、ついに落城して三村政親とその一族は城を抜け出し松山城に落ち延びたといいます。
鶴首城の戦い
三村親成・親宣父子は、元親と袂を分かち、毛利氏に身を寄せたため、備中兵乱当時の鶴首城には、親成・親宣父子に代わって三村左馬充親重が城主として入っていたようです。
親重は、二百余騎を随えて城を守り、毛利軍と攻防戦を展開しましたが、カ尽き、天正3年(1575)正月朔日落城しました。
この戦いで毛利軍の先導をしたのが三村親成だといわれています。そのとき鶴首城の守備にあたっていた者の多くは一族の者や今まで味方として辛苦を分け合ってきた者たちであり、戦国の世の習いとはいえ、毛利軍の先導役を務めて、つい2か月ほど前までは自分の居城だった鶴首城を攻めなければならない親成の心境はいかばかりであったでしょうか・・。
矢倉畦城の戦い
矢倉畦城は、現在の岡山県加賀郡吉備中央町納地の矢倉山頂に築かれていた山城で、天正2年(1574)の暮れに毛利軍が攻め寄せたとき、田中直重らが百騎ばかりの軍勢で守っていました。
毛利軍は城を囲み、梯子を掛け塀を乗り越えようと上って来ましたが、城側は槍や長刀で突き落とし散々に矢を射かけて一度は撃退したそうです。しかし、城内に敗戦を意識して忠誠心を失う者が現れ、遂に毛利軍に抗しきれなくなり、田中直重らは矢倉城を捨てて松山城に逃げ込んだようです。
楪城の戦い
※この城の支城は、鳶ヶ巣城・竹野城・角尾山城・朝倉城・粒根城などでしたが、「毛利の大軍勢に対抗するためには、兵力が分散していては不利」だと判断して、支城の軍勢を集めて三千余騎の兵力にまとめ、楪城の諸丸に配備していました。
天正3年(1575)正月5日、二万騎の毛利勢が押し寄せ遮二無二攻めかかり、城方も猛烈に矢を射かけ、怯んだところへ斬って出て、互いに譲らず、必死の攻防を繰り返しました。
城方の防備が固く、容易に攻め破れそうにないと判断した寄せ手が、城方の冨家大炊助・曽祢内蔵・八田主馬らに毛利側への寝返りを誘ったところ、これらの者はたちまち毛利側に翻ってしまい、正月8日敵兵を諸丸に引き入れて端の丸に火をかけ、敵兵とともに本丸に攻め込んで来たのだそうです。
※両軍の放つおびただしい矢の落ちた谷間を、それ以来”矢谷”と呼ぶようになったといいます。
しかし、元範は少しも屈せず、元範譜代の郎党70騎ばかりとともに討って出て、再三にわたって突き崩しましたが、やがて大半が討死してしまいました。
いよいよ万事休した元範でしたが、伊勢掃部入道という忠臣から切腹を諫められ、十騎ばかりで落ち延びることにしたようです。しかし、城から一里ほど離れた石指(現在の新見市高尾)で休んでいたところに多治部雅楽頭の五十騎ばかりが追いかけてきて、戦いの末に討たれてしまいました。
※元範戦死の地、早乙女岩は、今も新見市立高尾小学校の校地内にあります。
実親は、花光寺(現在の総社市山田にある華光寺)で、きらびやかに葬礼を執り行ったそうです。
参考資料 : 備中兵乱記、中国兵乱記、現地の案内板、その他