備中の名門三村氏について、その滅亡への軌跡に思いをめぐらしました。
備中兵乱と三村氏の滅亡(つづき)
荒平城の戦い
荒平城は、現在の岡山県総社市秦の城山に築かれていた山城で、城主の川西三郎左右衛門之秀は三村元親の一族でした。
天正3年(1575)正月17日、一万余の毛利軍が押し寄せましたが、三百騎の城兵が「やすやすと攻め取られてなるものか」と山の峰に構えた砦から石や木を落としたり、城内から東西の坂口へ突いて出るなど奮戦したため、寄せ手は散々に追いまくられ、多くの毛利兵が討死しました。
これに対して、川西は「三村の親類でありお味方するわけにはいかぬが、籠城の諸勢を助けて下さるなら四国へ退く」と約束し、讃岐へ落ちて行きました。
鬼身城の戦い
鬼身城(きのみじょう)は、現在の岡山県総社市にある鬼身山の山頂部に築かれていた山城で、城主の上田孫次郎実親は、備中松山城主三村元親の実弟で、先の鬼身城主上田近江守家実の孫娘をめとって家実の養子に入っていたのでした。
鬼身城は嶮岨な山城であり、三村方の要の城として三千騎の兵が配置されていました。
天正3年(1575)1月16日から数万の毛利軍に包囲され籠城戦となり、23日からは総攻撃を受けましたが、峰から石を刎ね落とし、大木を切り落として昼夜の戦いにも耐え続けました。
しかし、三村の謀反の道連れにされることを嫌った近江守は、「自分の一類と籠城の者たちの命を助けてくださるなら、実親に腹を切らせる」との約束を毛利側と勝手に交わし、実親に切腹を迫ったといいます。
そのため、城内に近江守に同心して毛利方に走る者や「実親が切腹すれば自分たちは助かる」と考える者が続出する混乱状態となり、城主上田実親は城内の兵を救うことを条件に1月29日辰の刻に潔く切腹しました。この時、実親は20歳でした。
※鬼身城では16世紀初めからは上田氏が代々城主になっていたようですが、5代目鬼身城主として実親を養子に迎えて三村氏に属したことは、三村氏が毛利氏を後ろ盾にしていた頃であれば心強い選択であったとしても、三村氏が毛利氏を敵に廻してしまっては悔やまれる選択でしかなかったことでしょう。
※実親は近江守に切腹を迫られなくても、遅かれ早かれ切腹するか討死するかしかない立場だったと思われます。切腹せざるを得なくなった実親も気の毒ですが、三村氏の私怨による謀叛に巻き込まれた養子先の上田氏も気の毒です。 実親を養子にしていなければ、三村氏の謀反に際して早々に毛利氏に従うこともできたでしょう。そして鬼身城主として上田家を存続させることも出来たかも知れません。
※上田実親の墓は、華光寺の墓地にあります。
大渡城の戦い
大渡城は、現在の岡山県総社市美袋の城山に築かれていた山城でした。
毛利方が、城主の三村民部少輔忠秀に「二百にも足りぬ少勢をもって、この大軍を迎え討とうとする心根に諸大将は感歎している。このうえは隆景卿の指図に随い先陣に加わられたい。それが出来ぬなら荒平同様に城を明け渡されれば四国へお送りいたそう」と勧めたところ、民部少輔は、「三村一類であり、先陣に加わることは出来ぬ。籠城の諸人を助けて下さるなら四国へ退きたい」と申し出て、讃岐へ落ちて行ったそうです。
松山城の戦い
備中松山城は、三村方の本拠の城であり、現在天守閣がある小松山をはじめ、大松山・天神丸・佐内丸・太鼓丸・馬酔木丸など砦二十一丸と呼ばれた出城・出丸が設けられ、櫓・塀・乱れ杭・逆茂木などで防備を固め、臥牛山一帯が一大要塞となっていたそうです。
天正3年(1575)3月から毛利勢は松山方面に陣を移し、諸方で松山勢と合戦・小競り合いがあり、多くの兵が討死しています。
城内の重代恩顧の者達は、「こうなっては義を励むほかにない。兵糧も塩も来春まではもつ」と励まし合い、怯む様子はなかったといいます。
しかし、こうして日が経つうちに、家親の代から厚恩を受けていた竹井宗左衛門・河原六郎左衛門の両人が元親を裏切って毛利に通じ、石川久式(三村元親の妹婿)の持ち場だった天神丸に敵兵を引き入れたのです。 これがきっかけとなり、逃亡する者や毛利側に寝返る者が続出し、諸丸の兵たちが次々と毛利側に寝返る事態となりました。
そして、ついに元親に随う者が30人ばかりになったとき、清和源氏の流れをくむ名門三村家の総帥であった元親は、見苦しい死に方を嫌い、城中での誇り高い切腹に拘りました。しかし、石川久式らの強い諫めによって、元親は「久式たちを道連れにするのも不憫だ」と考え直し、ひとまず城から落ち延びることにしたようです。
それでも何とか松連寺まで行き、通りがかりの者に伝言を頼んで「元親が切腹するので検使を遣わして欲しい」旨を毛利方へ申し出ました。そして毛利方から検使の武士が遣わされました。
元親は、諸事の子細を述べた隆景宛の手紙を一通認めた後、辞世を数首詠み、検使の武士達が感嘆する見事な振る舞いで切腹したそうです。
<元親公の辞世>
一度は都の月と思ひしに我待つ夏の雲にかくるる (年来の馴染み細川兵部小輔宛)
言の葉のつてのみ聞て徒に此世の夢よあはて覚めぬる (都に住む一族の武田法師宛)
残し置く言の葉草の影迄もあはれをかけて君ぞ問うべき (歌道の師大庭加賀殿宛)
思ひしれば行帰るべき路もなし本の真を其侭にして (老母宛)
人といふ名をかる程や末の露消てそ帰る本の雫に (末期の一句)
勝法師丸
元親には勝法師丸という子がいました。容貌甚だ優れ、生年8歳ながら詩歌を嗜み、書は他に並ぶ者がないほどであったといいます。
勝法師丸らの一行は、備前の天神山城を目指して逃れようとしていたところを、備前虎倉の城主伊賀左衛門久隆の手の者に捕らえられ、毛利の本陣へ引き渡されました。
勝法師丸と親族十人余りを預けられていた中島大炊助は、勝法師丸の出家(助命)を隆景に願い出ましたが、勝法師丸は、その利発さを憂い「助けておけば、後の戦の種になる」と懼れた隆景の命で、井山谷(現在の総社市にある井山宝福寺)で殺されてしまいました。かくして鎌倉以来の名門三村氏の嫡流は滅亡したのでした。
※備中兵乱記では勝法師丸を三村元親の子息としていますが、中国兵乱記では勝法師を石川久式の子としています。
参考資料 : 備中兵乱記、中国兵乱記、現地の案内板、その他