鬼ノ城の築城当時の姿や築城にたずさわった人々の思いを想像したりして、古代山城の雰囲気を楽しみながら遺構を巡りました。
復元されている部分だけでも大工事だと思われるのに、延々と連なる城壁や城門・高石垣などの全部となると、当時の築城工事は、膨大な労力を要する途方もない工事だったろうと想像されました。
東門跡付近 ~ 屏風折れの石垣
東門跡付近
東門跡付近は鬼ノ城の遺構の中でもとりわけ標高の低い所(標高約290mで角楼の辺りより100mほど低い)で、何となく下の景色が近く感じられました。
※標高はこのページ下の地図をクリックして確かめることができます。
その道の途中に、道端の列石の感じから「もしかして、この辺は当時の登城道だったかも?」と思われる場所がありました。
鍛冶工房跡
東門跡の近くに鍛冶工房跡がありました。
ここは鬼ノ城を築くために使用した鉄の道具を製作・修理した場所で、平坦な地面をつくり、柱を立て並べて、屋根をかけたと思われる施設と、その中に並んだ9基の鍛冶炉が発見されたそうです。
※発掘調査の後で埋め戻されました。
炉の周辺から、鉄滓・羽口・砥石などや、鉄を鍛えるときに飛び散る鍛造剥片・粒状滓も多数出土したそうです。
第5水門跡
屏風折れの石垣
屏風折れの石垣は、圧倒的な迫力がありました。山上の高所に一体どうやってこれだけのものを築いたのでしょう。
温羅奮跡 ~ 礎石建物跡
温羅奮跡
屏風折れの石垣から北西へ5分ほど歩いたところに温羅奮跡の碑がありました。
温羅については、諸説あるようですが、鉄器製造などの高度な技術を日本にもたらした渡来人のうち、吉備地方に住み着いた一族と考えるのが一般的な解釈のようです。
そして、吉備地方と大和朝廷との確執から、大和朝廷軍に一族を滅亡させられたという説が一番信じられそうです。
ともかく、この場所に碑があるのは温羅が鬼ノ城に拠って戦ったという意味なのでしょう。
土塁
49mもの長さでよく残っていたものです。
北門跡
北門は、鬼ノ城の4つの城門のうち唯一背面側にある城門で、石敷き・石垣・門柱などが復元されていました。
門柱が扉のところの本柱のみ角柱で、他は丸柱であるとか、通路床面下に「排水溝」が設けられているなど、他の城門とは異なる特徴もあるようです。
現地の解説板に、通路左右の石垣を「もとの位置のままの石」「積みなおしあるいは敷きなおした石」「新たに補充した石」に色分けして解説してありました。
城外の斜面に、連なった石積みが何層にも築かれているのが見えました。
復元工事による石積みとも思えない感じなので、「当時の石積みがある程度残っているのだな」と思いました。
礎石建物跡
鬼ノ城の中央部分で、柱の基礎に石を置いている建物跡(7棟分)が発見されています。
倉庫群跡
床を支える柱のすべてに礎石を置く建物(総柱建物)で、城内で必要な穀物や武器などを収めた高床の倉庫群だったと考えられているそうです。
※「礎石建物3」の想定図は現地解説板のものです。
管理棟跡
管理棟跡にあった建物は、6間×2間の細長い建物だったと想定され、建物の構造や周辺から須恵器を再利用した硯も出土していることから、役人が駐在した施設だったと考えられているそうです。