国史跡「吉川氏城館跡」のうち、吉川元春館跡と万徳院跡を見に行きました。
吉川元春は、中国地方の雄・毛利元就の次男で、父・元就によって毛利家より格上の名門・吉川家に養子として送り込まれ、吉川家を乗っ取る形で吉川家当主となり、小早川家に養子として入り小早川家の当主となった弟の小早川隆景と共に「毛利の両川」と呼ばれ、毛利家発展の基礎を築き上げたといいます。
吉川元春館跡
吉川元春館は、元春が嫡子の吉川元長に家督を譲り隠居した際に、自身の隠居館として1583年(天正11年)に建設を開始し、建設半ばで元春が九州で死去した後、吉川広家(元春の三男)の頃に完成したそうです。
※館跡は、間口110m(1町)奥行き80m(45間)の規模で、正面から奥に向かって狭まる形をしています。当時の都の屋敷の基準である一町四方にみせるように正面だけ一町にしたみたいです。
その後、1591年に広家が出雲の月山富田城に移ると、徐々に居館としての機能を失い、1600年に吉川氏が岩国へ移封された後、完全に廃墟と化したと考えられているようです。
そして、およそ400年間 館跡は田畑や森に埋もれていましたが、1994年からの発掘調査により、以前から確認されていた石垣に加えて、土塁・屋敷跡・庭園跡などが確認され、2006年までに石垣の修復や台所の建物の復元、庭園の修復・復元が行われたといいます。
北東隅の大型建物は、吉川広家妻(豊臣秀吉の養女)の住まいと考えられているそうです。広家が、秀吉との関係を誇示するため、周囲の人々によく見えるように館の表側に地盤を他の建物より一段高くして造ったようです。
発掘調査で見つかった場所に、当時の台所を復元してありました。柱やかまどなども当時と同じ位置で、窓や屋根も館跡から出土したものを元に再現しているそうです。
吉川元春と元長の墓所
館跡の奥(西側)に、吉川元春と元長の墓所がありました。
戦国の庭歴史館(吉川元春館跡資料館)
吉川元春館跡に隣接して戦国の庭歴史館(吉川元春館跡資料館)がありました。吉川元春館跡の資料とともに小倉山城跡・万徳院跡の資料などもあるようです。(月曜休館)
万徳院跡
万徳院は、吉川元春の嫡男吉川元長が1574年(天正2年)頃に建立した寺院で、当初は本堂と庫裏だけしかなかったものの、元長の別邸として利用されたといいます。
元長の死後、弟の広家が吉川氏の菩提寺としてふさわしい寺院を求め、長い参道や石垣・庭園・建物の増築などの大改修を行ったそうです。
しかし、1600年に吉川氏が岩国へ移封されると、万徳院も建物ごと移転したそうです。(その後寺跡は放置されて荒れるがままの状況でしたが、現在は発掘調査の後整備を経て歴史公園となっているようです)
<吉川元春館跡>
広島県山県郡北広島町海応寺
<万徳院跡>
広島県山県郡北広島町舞綱万徳
※吉川元春館跡のところも万徳院跡のところも、十分な広さの無料駐車場がありましたが、近くに食事のできる店が無いのが難点でした。