備中高梁市内をぶらりと歩いて、城下町の風情を楽しみました。
石火矢町
石火矢町には、今も格式ある門構えの武家屋敷が250mに渡って立ち並んでいて、路地の両脇には白壁の長屋門や土壁が続いています。
この通りには武家屋敷旧折井家・旧埴原家が面していて、石火矢町ふるさと村の主要な観光施設となっているようです。
武家屋敷駐車場(無料)に駐車して通りをゆるゆる歩き、雰囲気を味わいました。そして、武家屋敷では当時の武家の生活を垣間見ることができました。
武家屋敷旧折井家
屋敷は長屋門と母屋で構成されていて、屋敷の奥には鎧・兜や武具などを展示した資料館がありました。
旧折井家は、200石前後の武士が住んでいたということですが、むしろ敷の間などもあり、質素な暮らしぶりが想像できました。
武家屋敷旧埴原家
旧埴原家住宅は、江戸時代中期から後期にかけて、120石~150石取りで、近習役や番頭役などを勤めた武士の住宅だそうです。
石高から言えば旧折井家よりも低い武士の住まいなのに、藩主の生母の実家であることから優遇されたのでしょうか、寺院建築や数寄屋風の要素を取り入れたという立派な邸宅でした。
市の重要文化財に指定されているとかで、山田方谷の資料室もありました。
備中松山城御根小屋跡
御根小屋跡は、備中松山城のある臥牛山の麓にあり、現在は岡山県立高梁高等学校の校地になっています。
御根小屋跡は江戸時代に備中松山藩主が日常起居していた御殿屋敷兼政庁の遺構で、御殿は小松山山頂(標高430m)の「山城」に対し「お城」と呼ばれ、通常登城といえばこの御殿に出仕することだったそうです。
創建年代は不明ながら、その歴史は戦国時代まで遡ることができるといい、御根小屋跡にはそれぞれの時代を生きた多くの人たちの思いがしみ込んでいるような気がしました。
御根小屋跡の南側を流れる小高下谷川は御根小屋の内堀に見立ててあったようです。その川を越えて御根小屋跡の石垣に沿って鍵形に曲がる道を進むと、御殿跡の西側に出ました。
現在、御根小屋跡は高梁高校の校地として利用されているので御殿跡を見上げた場所は高梁高校の正門前になります。
そこに御殿建築配置図が設置されていました。この図は、かつての御根小屋の配置図に色を変えて現在の施設の配置が書き込まれた図で、対比しながら興味深く見ることができました。
そこから少し北に進んだところ(御殿坂の上の辺り)に下中門跡の石碑があり、傍らに御根小屋跡の説明板が設置されていました。
下中門跡のところから少し東に進むと作事門跡がありました。作事門跡の北側は高梁高校のテニスコートになっていて、その北東の石垣の上(高梁高校の運動場)に武具蔵があったみたいです。
坂を東に登りきったところが上中門跡で、現在は高梁高校の正門になっています。部外者は立ち入り禁止なので、残念ながら中に入って小堀遠州が手懸けたという心字池を囲む庭などを見ることはできませんでした。
御根小屋の跡地は明治の高梁中学校時代から校地として利用されていたようですが、風格があった明治の洋風木造建築の本館は昭和後期に取り壊されてしまったらしいです。
(筆者は高梁高校の出身なので、この場所は高校時代の想い出が詰まった懐かしい場所です。)
B:武家屋敷旧折井家
C:武家屋敷旧埴原家
D:梶谷邸の武者窓
E:御根小屋御殿建築配置図の場所
F:御殿坂