※明治期に取り壊されていたものを、昭和41年に鉄筋コンクリートで再建したようです。
下段(南側)から不明門付近を見上げると、中段へ続く立派な石段が見えます。
中段への入り口付近には鉄(くろがね)門跡もあり、大手門跡からも近いので、こちら側が中段へ入る大手口なのでしょう。
不明門を通り抜けて石段を上がると、天守閣のある上段に出ました。上段は本段と呼ばれ、城主自身の生活に必要な建物が立ち並び、築山や池のある庭園も造られていたそうです。
上段からは天守閣をほぼ真南から見ることができます。ここで天守閣をバックに記念写真を撮っている観光客を多く見かけました。
上段の南東の一画に礎石を並べた場所がありました。昔の天守閣の礎石をこの場所に移して展示しているようでした。
また、東側には、本段から川手に通じる六十一雁木上門がありました。門の外側の石段がもとは61段あったのだとか。
元禄時代の古地図からは、五重の堀に囲まれた城郭と、南北3.5km、東西1.3kmにおよぶ城下町の姿が伺えるそうです。
現在、本丸跡は「烏城公園」として整備され、修復工事が続けられています。
市街地に残る城郭の面影
明治6年(1873年)の廃城令により順次建物は取り壊され、堀の大部分は埋め立てられ、本丸と本丸内堀を残して巨大な城郭は市街地へと姿を変えていきました。
石山門は、現在 市民会館や山陽放送会館が建っている辺り(かつて石山城があった)にありました。
かつての岡山城にあった城郭建物のうちで、明治の破却や戦災を免れ、今も創建当時の姿を残している建物は、本丸の月見櫓と、西の丸の西端(天守閣から470mほど西)に位置する岡山城西丸西手櫓(国指定重要文化財)です。
岡山城西丸西手櫓は、本丸の外周を固める帯曲輪に当たる二の丸内屋敷郭の西側の防備に設けた二重櫓で、慶長8年(1603年)頃に池田利隆によって建築されたといわれています。
現在、周辺は市街地になっていますが、2014年末頃に西側にあった7階建てのビルが撤去され、西側(城外側)は県道沿いからでも見ることができるようになっています。(城外側では、鉄砲狭間や石落としなどが確認できます。)
二階の広間と東側の窓は、寛文12年(1672年)に池田光政が西の郭西部を隠居所にした際に、その一部として使用できるように小改修されたと推測されています。