岡山城(烏城)~(2)

不明門(表書院側)

不明門(表書院側)

 中段の南東隅に、天守閣や城主の住居のある上段(本段)への入り口を固めていた不明門があります。この城門は、普段は閉ざされていたため「あかずのもん」と呼ばれたそうです。
※明治期に取り壊されていたものを、昭和41年に鉄筋コンクリートで再建したようです。

 下段(南側)から不明門付近を見上げると、中段へ続く立派な石段が見えます。
 中段への入り口付近には(くろがね)門跡もあり、大手門跡からも近いので、こちら側が中段へ入る大手口なのでしょう。

下段から見た不明門付近

下段から見た不明門付近


 不明門を通り抜けて石段を上がると、天守閣のある上段に出ました。上段は本段と呼ばれ、城主自身の生活に必要な建物が立ち並び、築山や池のある庭園も造られていたそうです。

 上段からは天守閣をほぼ真南から見ることができます。ここで天守閣をバックに記念写真を撮っている観光客を多く見かけました。

天守閣(南側)

天守閣(南側)

天守閣の金箔瓦

天守閣の金箔瓦

天守閣内の展示物

天守閣内の展示物

天守閣からの眺望

天守閣からの眺望

天守閣の礎石

天守閣の礎石

六十一雁木上門

六十一雁木上門

 上段の南東の一画に礎石を並べた場所がありました。昔の天守閣の礎石をこの場所に移して展示しているようでした。
 また、東側には、本段から川手に通じる六十一雁木上門がありました。門の外側の石段がもとは61段あったのだとか。


天守閣の北西側

天守閣の北西側

 往時の岡山城の範囲は、現在 路面電車の通っている柳川筋や番町筋(当時の外堀跡)まであり、櫓が35棟、城門が21棟あり、当時の代表的な名城だったといいます。
 元禄時代の古地図からは、五重の堀に囲まれた城郭と、南北3.5km、東西1.3kmにおよぶ城下町の姿が伺えるそうです。

 現在、本丸跡は「烏城公園」として整備され、修復工事が続けられています。

岡山城

市街地に残る城郭の面影

 明治6年(1873年)の廃城令により順次建物は取り壊され、堀の大部分は埋め立てられ、本丸と本丸内堀を残して巨大な城郭は市街地へと姿を変えていきました。

石山門付近

石山門付近

現地の説明板から抜粋

現地の説明板から抜粋

 石山門は、現在 市民会館や山陽放送会館が建っている辺り(かつて石山城があった)にありました。


 かつての岡山城にあった城郭建物のうちで、明治の破却や戦災を免れ、今も創建当時の姿を残している建物は、本丸の月見櫓と、西の丸の西端(天守閣から470mほど西)に位置する岡山城西丸西手櫓(国指定重要文化財)です。

西の丸西手櫓(南東側)

西の丸西手櫓(南東側)

西の丸西手櫓(西側)

西の丸西手櫓(西側)

 岡山城西丸西手櫓は、本丸の外周を固める帯曲輪に当たる二の丸内屋敷郭の西側の防備に設けた二重櫓で、慶長8年(1603年)頃に池田利隆によって建築されたといわれています。

 現在、周辺は市街地になっていますが、2014年末頃に西側にあった7階建てのビルが撤去され、西側(城外側)は県道沿いからでも見ることができるようになっています。(城外側では、鉄砲狭間石落としなどが確認できます。)

 二階の広間と東側の窓は、寛文12年(1672年)に池田光政が西の郭西部を隠居所にした際に、その一部として使用できるように小改修されたと推測されています。

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