岡山城は岡山県の代表的な城でありながら、今までその気になって見に行ったことはありませんでした。今回は時間をとって見に行き、初めて天守閣にも入ってみました。
かつての岡山城(石山城)は、現在 市民会館や山陽放送会館の建っている高台(石山)にあり、金光氏が居城としていたといいます。
宇喜多氏の時代に・・・
その後、元亀元年(1570年)、宇喜多直家が金光宗高を謀殺してこの地を支配することとなり、天正元年(1573年)、直家はそれまでの居城である亀山城(沼城)から石山城に移ってきました。
そして、直家の子・宇喜多秀家が、豊臣政権下で異例の出世をとげ、父の遺領(備前、美作、さらに播磨、備中の一部)をほぼ継承し、57万4000石の大大名となってから、現在天守閣のある場所(岡山という名の丘陵)に本丸を構え、石山城を取り込む形で本格的な城を築いたのだそうです。
それは、旭川の流路を変更して天然の堀とするなど、慶長2年(1597年)の天守閣の完成まで8ヵ年に及ぶ大事業だったといわれています。
秀家の築いた天守閣は、三層六階で石垣からの高さが20.45mあり、外壁の下見板には黒漆が塗られていたといいます。
その天守閣は明治以後にも残り、国宝に指定されていましたが、昭和20年(1945年)の岡山空襲で惜しくも焼失してしまいました。
現在の天守閣は、昭和41年(1966年)に鉄筋コンクリート造りで再建されたものですが、外観は旧状通りに再現されたといわれ、烏城の別名があります。
宇喜多秀家が慶長2年(1597)までに築いた石垣で、加工を施さない自然石を用い、高さは14.9mある。この位置は、岡山の丘のもとの崖面に当たり、石垣の背後はその堅い地山に持たせている。
とありました。
毒殺・闇討ちなど謀略の限りを尽くした宇喜多直家は到底好感をもてる武将ではありませんが、その子の秀家は、関ヶ原の戦いで西軍主力(西軍の中では最大の1万7000人)として死力をつくして戦ったといい、武将として好ましい感じがします。
そういう理由もあってか、秀家の築いたという野面積の石垣にも何となく親しみが持てました。
小早川氏の時代には・・・
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍の主力となった秀家は、八丈島に流刑となり、宇喜多家は改易となりました。
代わって領主として入城したのが、豊臣一門(高台院の甥)でありながら西軍を裏切って関ヶ原の戦いを東軍の勝利に導いたあの小早川秀秋です。
戦後の論功行賞で岡山藩55万石に加増・移封されたということですが、まさに寝返りへの恩賞です。
上の写真は、小早川秀秋が築き、池田利隆が改修したとみられている石垣です。加工をあまり施さない自然石を使い、上部ほど傾斜が強くなる特徴があり、石垣の上には大納戸櫓が建っていたそうです。
秀秋は本丸中段の拡幅・整備や、三之丸外側の外堀工事、城下町の拡大などの事業を行いましたが、関ヶ原の戦いからわずか2年後の慶長7年(1602年)、21歳の若さで急死しています。
そして、秀秋には嗣子がなかったため、小早川家は断絶となりました。(秀秋の早世については、関ヶ原で秀秋に裏切られ恨みの言葉を残して自刃した大谷吉継の祟りによる狂死だという話もあったりしますが、アルコール依存症による内臓疾患を死因とする説が有力なようです。)
池田氏の時代を経て・・・
慶長8年(1603年)から岡山城は池田氏の居城となり、さらに整備が進みました。
右の写真は、搦め手の廊下門脇にある石垣で、池田忠雄が1620年代に築いたとされているものです。
この石垣には割石が使われ、打ち込みハギという工法で造られていて、宇喜多時代や小早川時代の石垣とは趣を異にしています。
上には廊下門に迫る敵を迎え撃つための小納戸櫓が建っていたそうです。
本丸の搦め手にある城門で、門扉の上に敵を迎え撃つための部屋を備えていました。部屋は本段と中の段を結ぶ城主専用の廊下としても使用されており、廊下門と呼ばれていました。現在の門は1966年に再建されたものです。
とありました。
※昭和41年(1966年)に、天守閣とともに、不明(あかずの)門・廊下門・六十一雁木上門、それに周囲の塀なども、古い絵図面に従って、外観が旧状通りに再建されたそうです。
岡山城の本丸は、上中下三段の地形に造られていて、廊下門などがある下段から一段高くしてある地面が中段です。
廊下門から入り、石段を上って中段広場に行ってみると、そこには表書院と呼ばれる備前(岡山)藩の政治を行うための建物が立ち並んでいたとかで、当時の建物の間取りを原寸で地面に再現してありました。
地階が武器の貯蔵庫になっていたり、隠し銃眼や石落としの装置などが設けられているなど、城外側への臨戦の備えをなしていますが、月見をはじめとした四季の眺望を楽しんだりできる構造にもなっているようです。
※月見櫓の棟鬼瓦には、蝶の家紋が入っていました。この家紋(止まり揚羽)は池田家の家紋みたいです。
月見櫓の付近にある塀には、土台の石に狭間を彫り込んでありました。現在の塀は昭和期の再建のようですが、もとの塀もこんなだったのでしょうか・・。当時の最新式の狭間で、全国的にも珍しいもののようです。
後の領主によって中段が拡張・かさ上げなど整備されたことが分かります。