城井ノ上城址

 大河ドラマ「軍師官兵衛」では俳優の村田雄浩さんが豊前宇都宮氏16代当主の宇都宮鎮房(城井鎮房)を好演しておられましたが、その豊前宇都宮氏が籠城所としていた城が城井谷城(城井ノ上城)で、一度行ってみたいと思っていた城です。

 戦国時代に至る九州の名門豊前宇都宮氏は、下野国の名族である宇都宮氏の分流で、鎌倉時代に豊前国の城井郷に地頭職として赴任したことが豊前宇都宮氏の始まりとされています。
(城井郷に土着した宇都宮氏は、やがて城井姓を名乗るようになったようです)

三丁弓の岩

三丁弓の岩

 説明板に 『射手三名おれば敵一兵も通さず』というところから名づけられた所、城井ノ上城の外備である。 とありました。
登城口

登城口

 車を置いた水子地蔵の場所から少し歩いたところに登城口がありました。

 豊前宇都宮氏は鎌倉時代から豊前の国を治めていましたが、天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州平定に際しては早々に秀吉に帰順し、宇都宮鎮房(城井鎮房)と嫡男朝房は島津攻めに協力しました。
 しかし、その後の九州国分けでは、宇都宮氏一族の領地(鎮房父子の本拠城井郷を含む)の豊前六郡十二万石余は黒田官兵衛孝高に与えられ、鎮房は転封を命じられました。

城井ノ上城表門

城井ノ上城表門

 説明板に ここは表門と呼ばれ、自然の岩が開口している。ここをくぐると周囲を岸壁に囲まれた長い谷が広がる城井ノ上城跡がある。 とありました。
番人の穴

番人の穴

 ここに見張り番を置いていたのでしょう。雨露も寒さもある程度しのげる感じで具合がよさそうです。

 転封を不服とした鎮房と他の宇都宮氏一族は、各地で蜂起して新領主として豊前に入国してきた黒田氏と敵対しました。

第二の門?

第二の門?

城井ノ上城跡

城井ノ上城跡

 鎮房は、この城井谷城(城井ノ上城)に籠城して黒田氏に抵抗しましたが、宇都宮勢の城は次々と潰され、やがて城井谷城は孤立無援となり、やむなく嫡男・朝房と13歳になる鶴姫を人質に出して講和を結びました。
順路

順路

裏門

裏門

 ところが、その翌年の天正16年(1588年)、鎮房は黒田長政に中津城へ呼び出され、そこで(官兵衛が長政に授けた謀略によって)殺されてしまったのです。
続いて、城下の合元寺に留め置かれていた鎮房の部下および城井谷城の留守を守っていた鎮房の父・長房や家臣団も掃討され、さらに肥後国人一揆鎮圧のため官兵衛に同行して肥後にいた嫡男・朝房も殺されました。
裏門の鎖場

裏門の鎖場

 裏門のところには鎖やロープが張られ、斜面に足を掛けられるように窪みがつけてあって、登りやすくしてありました。
裏門の隘路

裏門の隘路

 裏門は外側も急斜面で、ここを突破して城内に攻め込むには相当の犠牲を覚悟しなければならない感じでした。
 黒田氏は、将来的な禍根を絶つため、懐柔困難な宇都宮(城井)氏の族滅を計ったのでした。
人質として中津城中に居た鶴姫も、一族が殺されたことを知ると自害して果てたと云います。こうして大名としての宇都宮(城井)氏は滅亡してしまいました。(鶴姫については、磔になったという説や尼になったという説もあります)

※ この宇都宮氏に対する苛烈な処置は、「それは流石にやり過ぎだろう」という気もしますが、腹背を繰り返し転封にも従わない鎮房は秀吉の怒りを買っていて、官兵衛は秀吉から「あいつをどうにかしろ」と言われていたのかも知れません。

※ そもそも、「転封に従わない」なんて秀吉に楯突くこと自体あり得ない決断のように思えますが、鎮房としては「九州平定(島津攻め)で秀吉に協力したのに・・・」という思いがあったのかも知れません。しかし、秀吉に協力したといっても、自身は病気と称して出陣せず、息子の朝房に僅かな手勢を任せただけで秀吉の不信を招いたという説もあります。(諸説紛々です)


参考資料 : 福本日南著「黒田如水」、金子堅太郎著「黒田如水伝」、現地の説明版、その他

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