戦国時代、甲斐の武田信玄(武田晴信)と、越後の上杉謙信(長尾景虎)との間で、主に川中島で計5回(第一次合戦:1553年~第五次合戦:1564年)戦われましたが、一般的に 川中島の戦い というと 1561年の第四次合戦 を指すみたいです。
川中島古戦場史跡公園
第四次合戦(八幡原の戦い)では、信玄と謙信が川中島で雌雄を決しようと武田勢は八幡原に、上杉勢は妻女山に陣をとり、両軍併せて33,000余が死闘を尽くし、八幡原は修羅場と化したと伝わります。
その中にあって、謙信はただ一騎愛刀「小豆長光」を振りかざして信玄めがけて武田の本陣に切り込み、不意を突かれた信玄は軍配で謙信の太刀を受けたといいます。(この時、信玄41才 謙信32才)
川中島の戦いは、この両将一騎討ちの伝説を生んだ第四次の八幡原での激戦が最も有名となって、その戦場は次第に千曲川と犀川にはさまれた一帯に狭く限定されて語られるようになったそうです。
武田軍は兵を二手に分け、別働隊で妻女山の上杉軍を麓の八幡原に追いやり、平野部で待ち伏せした武田軍本隊と別働隊とで挟み撃ちにする啄木鳥戦法で上杉軍を殲滅しようと、1561年9月9日 別働隊1万2千が妻女山に向い、信玄率いる本隊8000は八幡原に鶴翼の陣で布陣しました。
翌10日午前8時頃、川中島を包む深い霧が晴れた時、いるはずのない上杉軍が眼前に布陣しているのを見て、信玄率いる武田軍本隊はさぞ動揺したことでしょう。そこに、上杉謙信は、柿崎景家を先鋒に、車懸りの戦法で武田軍に襲いかかりました。
武田軍は完全に裏をかかれた形になり、鶴翼の陣を敷いて応戦したものの、上杉軍先鋒隊の凄まじい勢いに武田軍は防戦一方で信玄の弟の武田信繁や山本勘助ら名だたる武将が討死、武田本陣も壊滅寸前という危機的状況であったといいます。
この公園は、川中島古戦場に開設された公園で、平成29年7月1日より、公園名が「八幡原史跡公園」から「川中島古戦場史跡公園」に変更されたのだそうです。








