鳥取城では、1581年(天正9年)羽柴秀吉の兵糧攻め(第二次鳥取城攻め)によって籠城していた人々が飢餓状態に陥り、果ては人肉まで奪い合って食べるという凄まじい飢餓地獄になりました。この兵糧攻めは、鳥取の渇え殺し といわれています。
上記の兵糧攻めの時代には久松山の山頂が城郭の中心で、城も石垣ではなく土塁が築かれた「土の城」だったそうです。(久松山の麓に現在見られる石垣は、兵糧攻め後に鳥取城に入った宮部継潤が整備を始め、江戸時代になって池田家が因幡に封ぜられて以降に拡張されたもの)
秀吉の第一次鳥取城攻め
1580年(天正8年)6月、織田信長から中国攻めに派遣された羽柴秀吉が因幡国守護職である山名豊国が守る鳥取城を攻めました。
3ヶ月に及ぶ籠城戦の末、重臣の森下道誉・中村春続ら家臣団が徹底抗戦を主張する中、城主の山名豊国は降伏して織田家に臣従することを決め、秀吉は兵を退きました。
しかし、毛利勢(吉川元春)が因幡に勢力を盛り返してくると、森下道誉・中村春続ら家臣団は毛利家への従属を主張して豊国を追放(このあたりについては諸説あり)し、吉川元春に新たな鳥取城主の派遣を要請しました。
吉川経家の入城
(経家は、あらかじめ元服前の嫡男に家督を譲り、自らの首桶を持参して鳥取城に入ったといいます)
(信長公記 現代語訳)
秀吉の第二次鳥取城攻め
吉川経家が入城したことを聞いた羽柴秀吉は、同年7月、2万の大軍を率いて鳥取城に押し寄せ、帝釈山(現在の本陣山)に本陣を構え、帝釈山山頂も含めた14~5の砦を瞬く間に築城し、あれよという間に約20kmに及ぶ大包囲陣を完成させて、徹底した兵糧攻め(献策したのは秀吉の軍師・黒田官兵衛)を開始しました。
太閤ヶ平
太閤ヶ平は、秀吉が鳥取城の兵糧攻めに際して構築した陣城群の本陣で、一辺約50mもの規模を持つ内郭を巨大な土塁と空堀が囲んでいます。織田信長は、毛利本隊が鳥取城の救援に出陣した場合、自らが鳥取に出陣することを家臣に明言していたといい、太閤ヶ平は信長出陣を前提に築かれたと考えられているそうです。
(信長公記 現代語訳)
鳥取城では
吉川経家は、備蓄の兵糧米の少なさに驚いて、急いで兵糧を送って欲しいと元春に訴えました。
しかし、秀吉が厳重な城の包囲に加えて兵糧の搬入路になると目される千代川の河口付近にも砦を構築して徹底的に兵糧の搬入を防いでいたので、毛利方はどうしても兵糧を搬入することができませんでした。
そして、ただでさえ備蓄米が不足している鳥取城に村々の領民が逃げ込んで来た(城内の食料が早く尽きるよう、秀吉軍が領民を追い立て鳥取城へ逃げ込ませた)ので、城内の食料は僅かな期間に食べ尽くされてしまいました。
その後の飢餓地獄は書物に次のように記されています。
(信長公記 現代語訳)
(豊鑑)
(真書太閤記)
はじめ経家は、冬まで持ちこたえることができれば秀吉軍は寒さに耐えられず囲みを解いて帰るに違いないと考えていたようです。しかし、頼みの糧道を寸断され、冬まで城中の兵糧が持たなかったのです。
(因幡民談記)
元春も、鳥取城の惨状をただ傍観していたわけではなく、1581年(天正9年)吉川元長(元春の嫡男)率いる軍勢を鳥取城の救援に向かわせました。しかし、途中の羽衣石城で織田方に与する南条元続の軍勢に阻まれてしまいました。また、元春が海路で向かわせた兵糧船・軍事船も織田方の松井康之率いる水軍によって撃破され、鳥取城救援は成功しませんでした。
一時は中国地方のみならず讃岐、但馬、播磨、豊前の一部にまで勢力を拡大していた毛利氏でしたが、この頃には次第にその版図を織田氏に奪われつつあり、鳥取城を守り切るのも難しい状態だったと思われます。
ここに至って、経家は、森下道誉・中村春続と相談して降伏することを決め、自身の切腹と引き換えに城兵の助命を秀吉に要請しました。
秀吉は経家の奮戦を称え、責任を取って自害するのは森下道誉・中村春続だけでよく、「経家公は、連れて来た兵と共に芸州に帰られたい」とすすめました。しかし経家は「吾不肖なりと雖も仮にも大将の號を受し身、国方の者共にのみ自殺させて、命助かり本国に帰りて何の面目で元春公に対面できようか」とそれを拒否し、自害するとの意志を変えなかったといいます。
諸説ありますが、結局秀吉は、吉川経家・森下道誉・中村春続の三人を切腹させ、三人以外は妻子たちも含めて籠城の者たちを助命したようです。
(因幡民談記)
そして、秀吉は、降伏し切腹することを決めた経家たちに「最後の酒宴を進めよ」と沢山の酒肴を送ったそうです。
(因幡民談記)
因幡民談記には、「三人の大将先以城中の諸人の命を助け、殊に妻子眷属許さるること、嘆きの中の悦也とて、憂ひたる振もなく、勇み悦びけり」ともあり、武将たちの思いと潔さが伝わってきます。
また、陰徳太平記には吉川経家の最期の様子が次のように書かれています。
・・・経家は羽織を脱ぎ捨て、一尺五寸の刀を抜いて中巻にすると、にっこりと微笑んで、「日頃から稽古していたことでもこういうときには仕損じるものだが、ましてこれは稽古もせぬこと、見苦しきこともあろうが」と言って、辞世の句を
武士の取り伝えたる梓弓かえるやもとの栖なるらん
と口ずさみ、その声の下から、刀を左の脇腹に突き立て右に「エイヤッ」と引き回し、また取直して心元に突き立て臍の下まで押し下げた。
刀を持ったままで、両手を突いて首を差し出し、(家臣の静間源兵衛に)「よく打て」と命じた。
静間は刀を振り下ろしたが、さすがに先祖代々仕えてきた主君だからか、 目はくらみ、心も消え果て、太刀をどう打ち下ろしていいのかもわからなくなったのか、少しも切れなかった。経家は弱った様子もなく、「馬鹿者。切らぬか」と声をかけた。 ようやく二の太刀でその首を打ち落とした・・・
自害後、吉川経家の首は、羽柴秀吉に届けられ、秀吉は首を見るなり「哀れなる義士かな」と言って男泣きしたと伝わります。 その後、安土の織田信長のもとに送られ、信長によって丁重に葬られたそうです。
開城後、秀吉は城の廻りに大釜を多く据え置き、籠城して飢餓状態に陥っていた城兵・領民に粥を煮て食べさせたところ、急に多く食べて死んでしまう者が続出したそうです。
参考資料 : 信長公記、豊鑑、真書太閤記、因幡民談記、陰徳太平記、鳥取市歴史博物館の資料、現地の説明板、その他