源平合戦の史跡巡りに行きました
現在の藤戸(倉敷市藤戸)周辺は陸地となっていますが、寿永3年(1184年)の合戦当時は海に島が点在している状態でした。
そこで一ノ谷の戦いに敗れて逃れてきた平氏と本土側の日間山一帯に布陣した源氏が海峡を挟んで対峙しました。
しかし、源氏には船が無かったので平氏の陣に攻め込むことができず、戦況は膠着し、平氏の船から扇でさし招く挑発にもただ歯ぎしりして悔しがるだけの状態となっていました。
そんなとき、源氏の武将佐々木三郎盛綱は、藤戸の海を自分の庭のように熟知している浦の男に出会いました。浦の男は、老いた母親と二人で暮らしている漁夫でした。彼は盛綱の求めに応じて、対岸の児島に渡る一条の浅瀬があることを教え、「褒美をとらす」との盛綱のことばを信じ、海中に入り目印の笹をたてながら先にたって案内しました。
しかし、彼は再び帰っては来ませんでした。彼の口から浅瀬を他の武将に語られるのを恐れた盛綱は、口封じのために彼を斬り捨てて海中に沈めたのでした。
翌朝、盛綱は、郎党数騎を従えて乗り出し岩の処から海へ馬を乗り入れ、目印の笹をたよりにまっしぐらに海峡を乗り渡り、先陣庵のあたりに上陸しました。
最初は盛綱の無謀に驚き、さかんに呼び戻そうとしていた他の源氏の武将たちも、海は渡れると知って続々と渡っていきました。
そして源氏vs平氏の激戦が繰り広げられましたが、やがて平氏は敗走し、讃岐国屋島に逃れていきました。
盛綱は、源氏大勝の端を開いたこの戦功により、源頼朝より絶賛の感状と児島を領地として賜りました。
先陣庵
源氏の陣中から馬で海を渡ってきた佐々木盛綱は、この先陣庵のある辺りに上陸し、一気に平氏の陣に攻め入って源氏を勝利に導きました。
そして、先陣の功を立てた恩賞で備前国児島を領地として賜った盛綱は、この地に「先陣寺」という寺を建て、戦没した将兵と口封じに斬り殺した浦の男の冥福を祈ったそうです。
当時は広大な規模だったという「先陣寺」は、いつしか衰えてしまって今は小さな庵に名残をとどめているだけになっています。
笹無山
佐々木盛綱に斬り殺された浦の男の老母は、盛綱に騙されてわが子が亡き者にされたことを知って半狂乱となり、「佐々木と聞けば笹まで憎い」と小山の笹をむしり取り、恩を仇で返した盛綱の残酷な仕打ちを呪いました。
老母の怨念が宿ったのか後の世まで、この小山には笹が茂ることがなかったといいます。
藤戸寺と経ヶ島
先陣の功を立てた恩賞で児島の領主となった盛綱は、戦没した将兵と口封じに亡き者にした漁夫の追福のために、藤戸寺で大法要を営み、写経を当時藤戸寺の離れ境内であった海中の小島に埋めたといわれ、そのことからそこが経ヶ島と呼ばれるようになったといわれます。
経ヶ島の頂上には源平両軍の戦没者の霊を慰める宝筐印塔と若い浦の男の霊を祀る供養塔があるそうです。










