三木城の兵糧攻め

三木城跡

 三木城(みきじょう)は、播磨国美嚢郡三木(兵庫県三木市上の丸町)にあった城で、室町時代の15世紀後半に別所則治によって築かれ、以後別所氏の居城となりました。
・・播磨国は、天正5年(1577年)頃には、織田氏と毛利氏の勢力争いの中にあり、多くの勢力が織田氏寄りとなっていました・・

別所長治公像

別所長治公像

長治公400年記念の塀

 そして、天正6年5代目城主別所長治のとき、別所氏は織田氏に離反して国人衆や領民約7500人とともに三木城に立て籠もり、別所氏の影響下にあった東播磨の諸勢力がこれに同調する事態になりました。
(三木城は、当時東播磨随一の要害でした。)

 これに対して、織田軍は別所氏に与している城や三木城の支城を一つ一つ攻め落としていき、織田信長の家臣羽柴秀吉は、三木城を包囲して兵糧の補給を断つ戦術(兵糧攻め)をとりました。

 そして、1年8ヶ月に及ぶ兵糧攻めに遭った三木城では、「牛や馬を食べ尽くし、草や木の根、木の皮を囓った。それもなくなると、虫や蛇、鼠を捕らえて食べ、果てには壁土の中の藁まで口にした」という飢餓地獄となり、餓死者が続出したといいます。
かんかん井戸

かんかん井戸(城外への抜け穴があったという)

別所長治辞世の句碑

別所長治辞世の句碑

 長治は、飢えに苦しむ家臣・領民の命を救うことを条件に自害することを秀吉に申し入れ、天正8年(1580年)1月17日、一族とともに自刃(享年23歳)して三木城を開城しました。

 開城後に出てきた城兵、農民達の姿は、骨と皮ばかりの鬼気迫る形相で、幽鬼そのものであったといいます。

 現在、本丸跡の上の丸公園には、長治の辞世の句碑、別所家一族の辞世の句碑、かんかん井戸、長治の像があります。

<別所長治と一族の辞世の句>

今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば
(長治公)

命をも 惜しまざりけり 梓弓 末の世までの 名を思ふ身は
(別所彦之進友之公)

諸共に 消え果つるこそ うれしけれ 後れ先立つ ならひなる世に
(長治公室)

頼めこし 後の世までも つばさをば 並ぶるほどの 契なりけり
(友之公室)

後の世の 道も迷はじ 思ひ子を つれて出でぬる 行く末の空
(吉親室)

君なくば うき身の命 何かせん 残りて甲斐の ある世なりとも
(家老三宅肥前守治忠)

 長治らが自刃したとき、友之(長治の弟)は21歳、照子(長治の妻) は22歳、尚(友之の妻)は17歳です。

そして、照子も波(別所吉親の妻)も、可愛い我が子を道連れにしての死出の旅です。あまりにも悲惨な情況を迎えてなお、こんなにも凛とした歌を詠んでいたとは・・・・。

別所家一族の辞世の句碑

別所家一族の辞世の句碑

別所家一族自害の場面

別所家一族自害の場面(三木合戦図から抜粋)

 照子は、夫や子どもたちと一緒に死ねるのが嬉しいように詠んでいますが、年端もいかない4人の幼子を道連れに死ぬのが嬉しいはずはありません。

建前に生き建前に死ぬしかなかった名門武家の女性の悲哀が透けて見えるようです。

 波も、3人の子を道連れにすることを詠んでいますが、夫の別所吉親(長治の叔父)が長治を説得して信長から離反させた張本人でありながら「切腹は嫌だ」と見苦しい行動を取ったといういきさつがあり、微妙な心境だったろうと思われます。
 三宅治忠(別所氏の家老)は、長治兄弟の介錯をし、主君兄弟の首と吉親の首を秀吉の陣へ届けさせたのち自刃しました。

本要寺

本要寺

本要寺

 三木城攻めのとき、秀吉は従わぬ寺院などをことごとく焼き払ったため、城下は焼け野原になったといわれています。

 このとき、本要寺の本堂だけは戦火を免れ、三木城が落ちると、秀吉は平井山から本要寺に本陣を移し、ここで自刃した別所長治らの首検分をし、戦後の処理を行ったそうです。

雲龍寺

 雲龍寺は、三木城二ノ丸に続く高台にあり、三木合戦時には、殿堂・伽藍が焼失しました。

 天正8年(1580年)1月17日、雲龍寺住職の春泰禅師が別所一族の自害の席に招かれたとき、長治公は後事を禅師に託し、日頃から愛用していた「天目茶碗」と「唐子遊びの軸」を形見として贈ったそうです。

雲龍寺

雲龍寺

 現在、秀吉の兵糧攻めにあい、城内の藁まで食べたという言い伝えによって、毎年1月17日に、藁に見立てた”うどん”を食べて当時を偲ぶ会が催されているそうです。

長治公&照子夫人首塚

長治公&照子夫人首塚

 雲龍寺には、別所長治公と照子夫人の首塚があります。

 長治公が一族とともに自刃した後、長治公の首は安土の織田信長のもとに送られましたが、それを雲龍寺の住職が貰い受けて埋葬したそうです。

 長治公の句碑は首塚の傍にもありました。
また、「由緒の記」というものもあって、その基壇として三木城外堀に使われていた石垣が一部復元されていました。

長治辞世の句碑

別所長治辞世の句碑

由緒の記と石垣

由緒の記と石垣

 昭和48年(1973年)照子夫人の霊を合祀し、玉垣を築いたそうです。

竹中半兵衛の墓

 竹中半兵衛重治は、秀吉の軍師で、三木城の兵糧攻めの策を秀吉に授けたと考えられています。

竹中半兵衛の墓

竹中半兵衛の墓

竹中半兵衛の墓

竹中半兵衛の墓

 竹中半兵衛の墓は、「平井山本陣」近くのぶどう園の中に白い塀に囲まれてありました。
現在でも地元の人々によって手厚く供養されているそうです。

秀吉本陣(平井山)

 秀吉は、付城と呼ばれる砦を推定も含め40余り築いて三木城を取り囲んでいました。特に南側は土塁もすきまなく築かれていたといい、毛利からの補給路を完全に断っていたとみられています。

秀吉本陣跡の説明板

秀吉本陣跡の説明板

 そのうち、平井山ノ上付城は、秀吉が三木城攻めの本陣とした付城で、美嚢川と志染川の間に面した山上に位置し、南西に三木城を望むことができます。

 本陣跡へは、写真の説明板のある場所(駐車場)に車を置いて、歩いて登りました。

 天正6年(1578年)10月22日には、別所方が襲来して合戦が繰り広げられ、別所方が敗北して別所治定(別所長治の弟)らが討ち死にしたそうです。

(伝)太閤道を歩いて秀吉本陣跡の主郭辺りまで行ったのですが、次の予定もありそこで引き返しました。

(伝)太閤道

(伝)太閤道

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