設楽原に行きました

設楽原は、天正3年(1575年)に、3万8千人の織田信長徳川家康連合軍と、1万5千人の武田勝頼の軍勢が戦った長篠の戦いの主戦場になった場所で、現在の愛知県新城市にあります。

ジオラマ

設楽原歴史資料館にあったジオラマ

連吾川を挟んで東側に武田軍が布陣し、西側に織田・徳川連合軍が布陣していたそうです。

馬防柵

馬防柵(再現したもの)

激戦のあった辺りなのでしょうか、連吾川の西側に馬防柵が再現してありました。
この写真は右が東になっているので、この写真の右側(馬防柵の東側)に武田軍、左側(馬防柵を含めて西側)に織田・徳川連合軍が布陣していたということのようです。

鉄砲構え

鉄砲構え(復原したもの)

乾堀と馬防柵と銃眼付きの身がくし(土塁)の三段構えの鉄砲構えが復原してありました。

馬防柵の説明

馬防柵の説明(現地の説明板)


武田軍は、この戦いで大敗し、衰退の一途を辿ることになり、天正10年(1582年)清和源氏新羅三郎義光以来の名門・甲斐武田氏嫡流は滅亡してしまいました。

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