この城は、毛利・宇喜多連合軍と三村勢との戦(備中兵乱)において激戦が展開された城として、落城にまつわる悲話とともに歴史にその名を留めています。
登城
※駐車は、登城口付近のスペースを利用しました。
城跡
鬼ノ身城がいつ、誰によって築かれた城であったかについては伝えられていませんが、南北朝時代末期には今川上総介泰範が、16世紀初めからは上田氏が城主になったことが分かっています。
5代目の上田孫次郎実親は、備中松山城主三村元親の弟で、三村方に所属していました。その三村氏は、毛利方に所属していましたが、天正2(1574)年に謀叛を起こしたことで、同年11月に毛利方の大軍が備中国へ出陣してきました。三村方は居城の松山城をはじめ、備中国内にある諸城の防御を固め、鬼ノ身城へも兵3000騎を配置しました。
しかし、三村方の諸城はことごとく落城し、鬼ノ身城も天正3年1月16日より包囲され籠城戦となり、23日からは数万の兵による総攻撃を受けました。城は昼夜の戦いにも耐え続けましたが、ついに開城するしか方法がなくなりました。城内の兵を救うために城主上田実親は命をかけました。1月29日辰の刻に切腹。この時、実親は20歳でした。
上田氏滅亡のあとは、毛利方の武将である宍戸安芸守隆家が城主に命ぜられて、城代が置かれましたが、関ヶ原の合戦の後に廃城となりました。
城が築かれた場所は、瀬戸内から陸路で松山城へと通じる街道に面しており、また瀬戸内への前線拠点としても重要な城でした。岡山県下では珍しい「扇の縄」といわれる堅固な山城を築いています。山頂の主郭(一ノ壇)から扇を広げた形に壇を連続し、人頭大の石や一抱えもある角礫を使った石垣なども築きながら3段で構成されています。
中世から戦国期の山城の形状がよく残されており、防御性にすぐれた山城であったと評価されています。
城跡は、一ノ壇(主郭)~三ノ壇、六ノ壇~八ノ壇のところは綺麗に整備されていましたが、他の壇は笹を刈ってあるところと刈っていないところがあったりして、一ノ壇から十二ノ壇まであるという全体の構造を掴むのは難しい状態でした。
鬼ノ身城落城と上田実親
三村氏が織田信長の誘いにのって反旗を翻したことを知った毛利氏は、小早川隆景を総大将として備中に8万の大軍を派兵し、圧倒的な兵力で猿掛城・国吉城・鶴首城・楪城・荒平城などの三村方の城を次々と落とし、鬼ノ身城へ押し寄せて来ました。
それを見て、これ以上戦いを続けることができないと判断した実親は、「籠城の者たちの助命を条件に切腹したい」旨を毛利軍の小早川隆景に申し入れ、受け入れられました。
そのことを知った上田の郎党どもは自分の命が助かったことだけを喜び、主君実親の自害を急がせるという無情な有様で、実親が近習の者たちに形見として分け与える武具も奪い取られていて、切腹の前にはひとつも残っていなかったといいます。
このとき、毛利の将でさえも、実親が二十歳の春に蕾のままに散ったことを「千兵は得やすく、一将は求め難い」と惜しみ、齢八十におよんでなお我が身可愛さから孫娘の婿の若い実親に腹を切らせた近江守を憎んだといいます。・・・・(参考資料 : 新釈備中兵乱記、その他)