備中松山城(3)

中世城郭跡

 大松山城跡など中世の城郭跡へは、「本丸」の下の段を東側から「二重櫓」の北東に回り込み、「十の平櫓跡」付近にある道標に従って「水の手門跡」のところから遊歩道を下り、下にある橋を渡って行きました。

十の平櫓跡付近

十の平櫓跡付近

十の平櫓跡付近にある道標

十の平櫓跡付近にある道標

水の手門跡

水の手門跡

相畑城戸跡

遊歩道

遊歩道

平坦面と名称石碑

平坦面と名称石碑

石積み

石積み

 天正2年~3年(1574~1575)に備中松山城主の三村氏と毛利氏との間で起こった松山合戦(備中兵乱での松山城の戦い)の古戦場で、土塁などが残り、近世城郭に関わる井戸跡や番所跡などもあるそうです。石積みは随所に見られましたが、城郭遺構なのかどうかは分かりませんでした。(標高約440m)

天神の丸跡

本丸跡付近

本丸跡付近

本丸跡

本丸跡

出丸の曲輪跡

出丸の曲輪跡

 松山合戦で最初に陥落したところといわれています。臥牛山最高峰天神の丸山頂と南北に延びる尾根上に本丸や出丸があり、本丸には「天神社」という神社があったそうです。(標高約480m)

大松山城跡

大松山城跡

大松山城跡

井戸跡

井戸跡

本丸跡

本丸跡

 延応2年(1240)に臥牛山で初めて城が築かれたところで、大松山山頂と西に延びる尾根上に、本丸・二の丸・三の丸・腰曲輪・井戸・堀切などの城郭遺構が残っているようです。中世の城郭としては大規模なもので、鎌倉時代から戦国時代にかけて使用されたそうです。(標高約470m)

その他の史跡

大池

大池

番所跡

番所跡

切通

切通

 大池は、かつては「血の池」とか「首荒いの池」とも呼ばれており、人の首や刀を洗った池という言い伝えがあるそうです。
 番所切通は、臥牛山の北端にあたる部分で、北からの防備のために幕末の動乱期に設置されたようです。


備中松山城の歴史と備中兵乱

 この地は山陰と山陽を結び、東西の主要街道も交差する要地であるため、その支配をかけて激しい争奪戦が繰り返されました。

 そして、城主は、創始の秋庭氏から→高橋氏→高氏→秋庭氏→上野氏→庄氏と目まぐるしく交代が繰り返され、永禄4年(1561)には成羽(現高梁市成羽町)の鶴首城を拠点としていた三村家親が毛利氏の支援を受けて庄氏を追い払い、備中松山城に拠点を移しています。

 しかし、備中松山城を拠点に備中国のほぼ全域及び備前国の一部を勢力下におさめていた三村家親は、永禄9年(1566)備前の宇喜多直家によって暗殺されてしまいました。
 そして、家親の(長男の元祐は他家へ養子に出ていたため)次男の三村元親が三村氏の家督を相続しました。

 その後、元亀3年(1572)、毛利氏が宇喜多直家と結んだため、宇喜多氏に父親を暗殺された遺恨を持つ元親は、天正2年(1574)織田信長からの誘いを契機に、三村親成(元親の叔父)や一部重臣の反対を押し切って織田信長など反毛利勢力と結んで毛利氏に反旗を翻したのです。(このとき、毛利氏からの離反に反対だった親成とその子・親宣などは毛利側についたそうです。)

 そして、毛利氏は小早川隆景を総大将として備中に8万の大軍を派兵し、天正2年(1574)冬から翌3年にかけて、備中松山城をはじめとする備中諸城で、毛利・宇喜多連合軍 vs 三村勢 の激戦(いわゆる備中兵乱)が展開されました。

 毛利軍は、猿掛城・斉田城・国吉城・楪城・荒平城・鬼身城・幸山城・その他備中一円の三村勢の城を落とし、三村軍の本城である備中松山城を囲みました。

 この頃には備中松山城の主城は小松山へ移り、臥牛山一帯は大松山をはじめ天神丸・佐内丸・太鼓丸・馬酔木丸など砦二十一丸と呼ばれた出城・出丸が設けられ、全山が一大要塞となっていたようですが、大軍に囲まれ命を惜しんだ家臣らの裏切りが続出して落城し、元親は切腹しました。

 最後に常山城も落城し、数々の悲話を残して三村氏は滅びました。

 楪城(現在の新見市)主の三村元範(元親の弟)は、三千の兵で城を守っていましたが、毛利勢の大軍に攻められ、命を惜しんだ家臣らの裏切りで堅城は敢え無く落ち、奮戦するも衆寡敵せず玉砕しました。

 鬼身城(現在の総社市)主の上田実親(元親の弟)は、三千の兵で毛利勢の大軍と戦いましたが、道連れにされることを嫌い毛利に通じた義父に自刃を迫られ、家臣の寝返りも続出し、城兵の命と引き替えに20歳の若さで切腹しました。

 常山城(現在の玉野市)主の上野高徳の一族も玉砕しましたが、高徳の妻・鶴姫(元親の妹)は、城内の侍女三十余名とともに、毛利軍に斬り込んだのち自刃しました。

 後に、三村元親の一族と石川久式(妻が元親の妹)の一族は、探し出されて井山宝福寺(現在の総社市)に送られ、小早川隆景によって残らず殺されました。

 そして、備中松山城主は、三村氏から→毛利氏→小堀氏→池田氏→水野氏→水谷氏→浅野氏→安藤氏→石川氏→板倉氏と代わり、明治維新を迎えました。

 参考資料 : 現地の解説板、新釈備中兵乱記(加原耕作編著)、その他

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