赤穂に行きました(2)

花岳寺

 花岳寺は、赤穂藩祖浅野長直公によって正保2年(1645)に建立された浅野家の菩提寺で、元禄事件後は永井家、森家歴代藩主の菩提寺となりました。

 境内には、四十七義士の墓・宝物館・義士木像堂などもあり、赤穂義士ゆかりの史跡ともなっているようです。

花岳寺山門

花岳寺山門

 赤穂城の塩屋惣門(西惣門)を移築したという山門は、素朴で無骨な武家門の風格を備えていて、赤穂市指定文化財になっています。
(山門の奥に見えているのは、二代目大石なごりの松です)

 初代大石なごりの松は、大石内蔵助の手で植えられた松で、元禄14年の事件後、大石が赤穂を去るに当たり本堂裏の大石家先祖の墓にお詣りした際、松の木に別れを告げ、名残を惜しんだことから「大石なごりの松」と呼ばれるようになったそうです。

初代大石なごりの松

初代大石なごりの松

鳴らずの鐘

鳴らずの鐘

 鳴らずの鐘は、赤穂二代藩主の浅野長友公が父長直公のために鋳造したもので、三代藩主長矩公の刃傷事件によって吉良邸へ討入り切腹した義士の死を悼み悲しんで花岳寺に集まった赤穂藩民衆が、この鐘をつきまくったため、音韻が狂い、「鳴らずの鐘」と言われるようになったそうです。(今ある鐘は、1800年頃に新しく改鋳したもののようです。)
 この鐘は、「義士との由緒深きにより」戦時供出を免れた赤穂市内唯一の梵鐘だそうです。

有料エリア内の様子
 上の写真は、有料エリア内の様子で、「忠義塚」の後ろに義士墓所、その後ろに義士宝物館、その右手に義士木像堂があります。
 また、「義士墓所」入り口の左右に、大石内蔵助の屋敷から移植したという「忠義桜」と夜逃げした家老の大野九郞兵衛の屋敷から移植したという「不忠柳」などがあります。

 義士墓所には、説明の音声が繰り返し流れていました。

 「正面の大きなお墓が、浅野家三代目長矩(ながのり)公、右が大石内蔵助、左が大石主税の墓で、周囲が義士のお墓です。
 墓には遺髪が埋められていると言われ、お墓の順番は右から格式順に建てられています。
 戒名の一番上に刃(やいば)の文字が入っているのは、切腹したということです。左の最後は、寺坂吉右衛門(きちえもん)ですが、この人は切腹していませんので刃の文字はありません。・・・」

とか。

義士墓所

義士墓所

義士の墓

義士の墓

義士木像堂・義士宝物館

義士木像堂・義士宝物館

 左写真の正面の建物が「義士木像堂」で、左側の建物が「義士宝物館」です。どちらも館内は撮影禁止でした。

 義士木像堂の木像は、討ち入りの時の姿の火消し装束で、大石内蔵助を大将とした表門隊23体を右側に、大石主税を大将とした裏門隊24体を左側に展示してありました。

 いずれも義士の33回忌(1735)から100回忌の間に造り納められたというので、古いものだと280年以上前のものということになりそうです。

 出来映えもさることながら、歴史の重みがあり、とても見応えのある素敵な木像でした。

 義士宝物館には、浅野家や義士に関する宝物、経巻、書簡、絵画、刀剣、器具などを展示してありました。なかでも、大石内蔵助が吉良上野介にとどめをさした短刀や早打ち状など、マニア必見のお宝がたくさんありました。

その他

息継ぎ井戸

 花岳寺の近くに息継ぎ井戸があると知り、行ってみました。

息継ぎ井戸

息継ぎ井戸

 江戸での浅野内匠頭による刃傷事件の第一報を知らせるため、江戸にいた早水藤左衛門萱野三平が早駕籠で四昼夜半揺られ続けて赤穂城下に入った際、両人はこの井戸の水を飲んで一息ついてから城内の大石内蔵助邸へ入ったといわれ、以来、息継ぎ井戸と呼ばれているそうです。

 息継ぎ井戸がある広場は「息継ぎ広場」と呼ばれているようでした。
 そこに「からくり時計」がありました。 午前9時~午後8時の毎正時になると、陣太鼓の音が鳴って作動し、正面の浅野家・大石家の紋が入った扉が開いて、からくり人形がナレーション付きで4場面、3分ほど忠臣蔵の名場面を再現するそうです。

からくり時計

からくり時計


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