荒平山城(荒平城)は、現在の岡山県総社市秦に築かれていた山城で、戦国期の備中兵乱での戦いが歴史に残っています。
荒平山城跡(尾根上にある)へは、南西側の「サントピア岡山総社」の付近からも行けますが、今回は北東側の石畳神社のところから行きました。
二ノ壇(主郭)は周囲より一段高くなった方形の壇で、東屋が建てられています。
東屋に設置してある説明板によれば、荒平山城は永享年間(1429~40)に地元の豪族・河西氏によって築城されたようで、平時の居館は山裾にあり、戦時の山城と対になっていたそうです。
東屋に設置してある説明板に、城跡の略側図が載っていました。各々の壇は石を使わず土盛だけで成形したもので、全長は150mほどあるそうです。
東屋に設置してある説明板に、荒平山城の鳥瞰図(想像図)も載っていました。
城跡の一帯は最近整備されたようで、雑木が切り取られ、各壇の様子を容易に確認することができるようになっていました。
荒平山城は、備中兵乱の戦いのとき、城主の河西氏が三村氏に味方したため、天正3年(1575)に毛利方の小早川隆景に攻められました。
城兵はよく奮戦したものの、城主河西之秀は城兵の助命を条件に降伏・開城して讃岐へ落ちのびたそうです。(その後、廃城となったよう)
五ノ壇の西側斜面を少し下ったところに井戸がありました。
この井戸がある谷を「尼子谷」というのだそうで、出雲の尼子氏が支配していた時期があったことが想像されます。