富田松山城を攻略

 富田松山城は、三石城や天神山城などとともに浦上氏の居城だった山城で、その城址は現在の岡山県備前市東片上の海抜209mほどの山上にあります。

浦上氏は播磨守護職赤松氏の被官として世にあらわれ、赤松氏のもとで次第に地歩を固めていったといいます。

富田松山城本丸跡のある峰

富田松山城本丸跡のある峰

 しかし、やがて赤松氏(赤松義村)は、浦上氏(浦上村宗)の権勢に危惧を抱くようになり、村宗を討とうとしたものの失敗して没落し、ついに大永元年(1521)逆に浦上氏が主家を乗っ取る形で西播磨・備前・美作三ケ国の実権を手中に収めることとなったそうです。

 さて、富田松山城の城主だった浦上国秀は、浦上氏の庶流と考えられ、浦上家当主の浦上村宗の跡を継いだ幼少の虎満丸(後の政宗)の後見人を務めていたらしく、虎満丸が成長するまでの当主代行的な地位にあったようです。

そして、虎満丸(政宗)が成長してからも重臣として権勢をふるい、その後の政宗と弟の宗景が対立した際には政宗に従って宗景と争い、その後は政宗を裏切り宗景に寝返ったといわれています。

 登山口は「品川リフラクトリーズ大渕球場」の傍(右地図の登山口のところ)にあり、縄張図のついた案内板も設置してありました。
そこに数台駐車できそうなスペースがありましたが、ゲートボールをする人たちの車で混んでいたので、80mほど手前(北)の広い空き地に駐車しました。

登城

登山口近くの地点

登山口近くの地点

登城道(登山道)

登城道(登山道)

本丸跡まで500mの地点

本丸跡まで500mの地点

 登城道は、道標が要所ごとに出ていて迷うことはなかったし、歩きやすく整備されていて快適でした。(階段が続く坂道でしたが、道標に添えられている城主の言葉に励まされながら気持ちよく登ることができました)

城跡

東出丸跡のある峰

東出丸跡のある峰

東出丸跡

東出丸跡

 東出丸は、東方の敵に備えるように築かれていたのでしょうか・・・見晴らしのよい場所で、空気の澄んだ季節だと遠くまで見渡せたことでしょう。
峰の頂上が長径30m短径15m程の郭となっていて、周囲は土塁で囲まれていたと思われます。この出丸だけでも小さな山城に匹敵しそうな風格がありました。

この場所は、一息入れたり設置されているテーブルで弁当を広げたりするのにもよさそうな感じでした。

堀切り

堀切り

大手腰曲輪

大手腰曲輪跡

二の丸跡

二の丸跡

本丸跡

本丸跡

土塁

土塁

 本丸跡は広く長径60m短径40m程もあるでしょうか。周囲が上幅2m高さ1m程の土塁で囲まれていました。雑草や雑木が伸び放題になっている山城も多いものですが、ここは、よく整備されている感じで見晴らしも確保されていました。

ここには観光客用のテーブル&ベンチがいくつも設置してあり、私も昼食・休憩に利用させてもらいました。

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