新庄山城は、別名を奈良部城といい、現在の岡山市東区竹原にその城跡があります。
この城は、亀山城主中山備中守信正の臣新庄助之進の居城だったということですが、何より、稀代の梟雄宇喜多直家(後の岡山城主)ゆかりの城として興味をそそられました。
登り口
上道公園の近くに駐車して、新庄山の北側登り口のところに行くと、そこに「新庄山城跡」の石碑や説明板がありました。
(さらにハイキングコースの案内図などもあり、山頂の新庄山城跡も史跡ゾーンとしてそのハイキングコースに含まれているようでした。)
登城道
北側登り口からの道は、新庄山城の登城道だったといわれる道で、急坂ながら路面がしっかりしていて歩きやすい道でした。
(そこには躑躅の木がたくさんあり、「躑躅の小径」という表示がありました。花の時季だとさぞ美しいことでしょう。)
本丸跡付近~展望台
「躑躅の小径」の場所を過ぎるとまた急坂になりましたが、ほどなく頂上の新庄山城の本丸跡(標高約124m・比高約113m)に到着しました。
現在、そこには新庄助之進と伊予前神寺の分霊を祀るという石鉄神社が建っていて、「新庄山城 宇喜多直家ゆかりの城」の標柱や説明板がありました。
新庄山城は連郭式の山城ということなので、何段かのやや広い場所で「遺構が残っているかな?」と辺りを歩いてみましたが、残念ながらそれらしい遺構は確認することができませんでした。
~~宇喜多直家と新庄山城~~天文18年(1549年)当時乙子城主になっていた宇喜多直家は、砥石城主浮田大和守(直家の祖父能家の異母弟)が主君浦上宗景に背いて備中の三村家親に通じたとし、宗景の軍勢と協力して砥石城を攻め、大和守を敗死させました。
直家は、このときの恩賞として宗景から奈良部に領地を得て新庄山城を賜わり、乙子城は弟の忠家に任せてここに移ってきました。
そして、天文20年(1551年)には中山備中守の娘を嫁にし、平穏な月日を過ごすうちに2人の娘をさずかり、舅の備中守もそうした娘婿を実の息子のように可愛がっていたといいます。
ところが、永禄2年(1559年)正月、宗景は、中山備中守と砥石城主になっていた島村豊後守に謀反の疑いがあるとして、2人の誅罰を直家に命じたのでした。
(中山備中守は直家の妻の実父でしたが、主君宗景からの命を断ると自分も謀反の疑いをかけられ宗景に殺されてしまう危険があり、やむを得ず誅罰を引き受けたのでしょう。島村豊後守は直家の仇敵なので、躊躇なく誅罰を引き受けたことでしょう。)
そして永禄2年の晩秋、直家は機会を得て2人を謀殺しました。このとき、実父が殺害されたことを新庄山城で聞いた妻奈美は、直家の所業を恨み、2人の女児を残して自害したといいます。
ともかく、主命を果たした直家は、その功によって亀山城(沼城)を賜り、10年ほどを過ごした新庄山城から亀山城に移っていきました。
その後、新庄山城は家臣に守らせていましたが、直家が石山城(後の岡山城)主となったときに廃城となりました。なお、本丸跡から焼麦が現在も出土するそうです。







