砥石城・高取山城を攻略

砥石城

 砥石城(といしじょう)は、現在の岡山県瀬戸内市邑久町にあった中世の山城で、戦国時代の宇喜多氏ゆかりの城といわれています。

砥石城跡登山口(東側の登り口)

砥石城跡登山口(東側の登り口)

「宇喜多直家生誕之地」の石碑

東側の登り口の近くに「宇喜多直家生誕之地」の石碑がありました

 宇喜多直家は、正攻法よりも謀略・謀殺を多用して裸一貫から中国路有数の戦国大名にのし上がり、「城下町・岡山」の開祖となった武将ですが、享禄2年(1529)に砥石城で生まれたようです。

 標高100mほどの砥石山尾根上にある城跡には、その東側の登り口から登山道を登って行きました。

(登り口のところに1台くらい駐車できるスペースがあったので、そこに駐車しました)

登山道

登山道

本丸跡手前の石段

本丸跡手前の石段

本丸跡

本丸跡

 当時この地域は備前守護代・浦上氏の支配下にあり、砥石城には浦上氏の配下にあった宇喜多氏が居城していました。

ところが、天文3年(1534)同じ浦上氏の配下にあった高取山城主・島村盛実(島村豊後守)の夜討ちによって砥石城は落城し、宇喜多能家(直家の祖父)は自害したそうです。

 直家は父・興家に連れられて落ち延びた後、備後鞆や備前福岡などを転々と放浪することとなり、不遇な時代を過ごしたといわれます。

 直家は、成人して旧主家である浦上宗景の家臣に加わると功を挙げて頭角を現し、やがて乙子城主となりました。

そして力をつけた直家は、生まれ育った砥石城を奪い返し、妻の実父である中山信正(中山備中守)を謀殺して居城の亀山城(沼城)と領地を奪い、仇敵の島村盛実も謀殺しています。

本丸跡

本丸跡

 以後、亀山城を本拠にして次第に支配地域を拡大していったようです。
石垣

石垣

石垣

石垣

 本丸の側面には石垣の遺構が残っていましたが、これはどうやら後世に積まれた石垣(江戸時代末期の金比羅宮の石垣?)のようでした。

 本丸跡からは平野方面がよく見えました。

当時は、城の周辺の木は伐採されていたはず(木があると、敵の動きが分かりにくいし、敵に火をつけられて火攻めに遭う可能性もある)なので、もっとよく見えていたでしょう。

本丸からの眺望

本丸からの眺望

砥石城略則図

砥石城略則図

 本丸跡の説明板に「砥石城略則図」が載っていました。

それによると、本丸の他に曲輪や出丸がありそうでした。
しかし、本丸北側の曲輪のところは、雑木が茂っていて足を踏み入れる気にはなれませんでした。

砥石山上で道を尋ねたハイカーから「畠山製菓でハイキングマップが貰える」との情報を得て、北側の登り口近くにある畠山製菓の売店でハイキングマップ(おくの細道アルプスハイキング案内)を貰いました。

そして、畠山製菓の前の空き地に車を置いて、北側の登り口からも砥石城跡へ登ってみました。城跡へ行くにはこちらから登るのが近い感じでしたが、雑草が伸びている場所があり、快適な道ではありませんでした。

高取山城

 宇喜多能家を砥石城に急襲し、能家を自刃に追い込んだ島村盛実の居城・高取山城は、砥石城の南西1kmほどの位置にあり、島村氏は代々この城を居城に浦上氏に仕えていたと考えられています。

 県道231号線沿いにある東谷公会堂のところに登城口の案内がありました。

高取山城登城口

高取山城登城口

 (登城口付近には駐車スペースはないようなので、公会堂のところから徒歩で行きました)

 高取山城跡の標高は163mとなっていたので、登城口からの比高は130m~140mくらいだろうから楽に登ることができるだろうと想像していました。

笹が伸びて道が見えません

笹が伸びて道が見えません

 しかし、砥石山で彷徨して結構足が疲れていたし、暑いし、飲み物は持っていないし、登城道には笹が伸びていて「ええっ!こんなところ通るの?」と思う場所が何カ所もあるし、蜘蛛の巣が顔にかかるし、日陰で休もうとすると蚊が来るし、マムシに噛まれる心配もあるし・・で、何度も途中で断念しようかと思いました。

 三の丸手前の堀切のところに設置されていた説明板は、もう相当に傷んで汚れていました。

 その説明板に載っていた「高取山城跡略図」によると、山頂の本丸跡の北に二の丸跡、東に三の丸跡があり、井戸跡も3箇所あるようでした。

しかし、本丸跡~三の丸跡の平坦面や堀切は確認できたものの、一帯は雑草や雑木に覆われた状態だったので、マムシが怖くて井戸跡までは確認できませんでした。

高取山城跡略図

高取山城跡略図

本丸跡

本丸跡

二の丸跡

二の丸跡

三の丸跡

三の丸跡

 砥石城と高取山城は1kmほどしか距離がなく、敵対した豪族の居城としては接近しすぎているし、それなりの勢力を持っていた豪族の居城としては小さすぎるともいえます。

そのことから、『砥石城と高取山城は浦上氏の番城であり、宇喜田氏と島村氏の両者が在番を任されていた。(両者の本来の居城は、もっと別の場所にあった)』という説もあるようです。

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